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KGK大嶋重徳主事の巡回日記

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学生主体とは、主事の仕事とは何か?

アンドリューリードと

現在、200数十名のスタッフ集団を抱えるAFES。
しかしほんの20年前は、フルタイムのスタッフが8名しかいない団体だった。
一体、この20年間のうちにこの団体に何が起こったのか?というのを知ることが、今回の留学中の一つの大きな目的。

この8名のスタッフが、オーストラリア中の大学を旅をして回り(事実、車で3日かかることもざらのこの大陸)、あるスタッフは疲弊し、学生たちの側には主事はいつもおらず、AFESは魅力的な団体として学生たちの目に映ることはなく、支援者や教会からも「サポートしたい」と思える団体ではなかった…。

この状況を「Change or Kill」と考えたのが2代前の総主事、Andrew Reidである。
現在、AFESの理事の一人であり、シニアスタッフカンファレンス中に開催される理事会(別部屋)に参加するために、登場。

そして幸いなことに2時間ほどのインタビューに快く応じてくれた。


彼の最初の改革は、主事の働き方について。

主事たちは多くの大学に飛び回るのではなく、ある焦点を絞って、じっくり、ゆっくりと学生たちと時間を過ごし、学生達に必要な聖書的、神学的な訓練を施すこと。
そして人格的な時間を1to1で過ごすこと。

それまでAFESの主事は、学生の側にいて幾つかのアドバイスをして、バイブルスタディーに参加して、一緒に祈り合うことに過ぎなかったと彼は言う。それは、まるで学生の世代が大好きな、単なるお世話係のような…。
そして、そのように関わることが、「学生の主体性」を育てることだと考えてきた。

しかしそのような働き方こそが、教会や初期のサポーターからの支援が下がり続ける原因ともなったとも彼は言う。

そこで彼は、主事の働きを、学生の信仰生活に聖書的の基盤を作る「学生訓練」に特化する働きへと焦点を絞ることへと主事会に促した。

それまでは主事がメッセージをするかどうかも学生が決めていたことから、「学生訓練」分野は、誰よりも学生を愛し、祈っている主事たちの判断を尊重し、霊的な訓練を委ねることへと学生達と話しあい、変更をしていった。例えば、学内やブロックではレギュラーの聖書講解(バイブルトーク、バイブルティーチ)を持つことなどへと。
しかしその他の実際的な事柄は、学生達の主体性に委ねられ続ける。

この方針転換を、学生の多くは喜び、受け入れた。
けれどもある卒業生にとっては、「それがAFESの学生主体か?」と反対する声があがったそう。

しかし彼ら主事たちと学生達は、地道に、そして誠実に継続することを重ねていった結果、学生達は主事のバイブルトークを聞くことを楽しみに、そしてそのチャレンジから明確な成長と変化を遂げるようになった。

そしてAFESに学生達が集まるようになり、
「あんな風に主事になりたい」と願う卒業生が起こされ、
ある者はApprennticeになりたいと願い、
ある者は神学校卒業後もAFESに戻りたいと願うような循環が生まれたそうである。


ここで考えさせられる大きなポイントは、「主体的な学生」とは何を意味するのか?ということである。
そして「KGKの学生主体とはなにか?」ということ。


かつて主体的な学生の姿は、特に過去の「学生自治」が叫ばれた学生運動の時代には、日本でもおおいに見られたと思う。
その時代と比べて、今日の学生に「主体的ではない」ということは果たして正しいことだろうか?


しかしKGKの掲げる学生主体というスピリットは、「学生自治」や、「学生主権」とは違う。

KGKがいう「学生主体」とは、「学生達の主体的な神への応答」のことだ。

神の似姿に形造られ、「生めよ、増えよ」と語られた神の言葉に「応答すべき」存在として造られた人間存在は、主体的に神に応答する人格として創造された。

この神の造られた人間の属性こそ、神ご自身が「主体的」な方であることに基づいている。
それゆえ、人間も「主体的」な存在なのである。

そして、この「主体性」の中心は、神への人格的な応答であり、服従であり、献身であり、悔い改めである。
罪の中にあった時「やりたいようにやる」ことから、神に応答することが「キリストから与えられた自由」であることを自覚し、喜んで主体的に自分をささげていく。
神と人とを愛することに自らの「自由」を用いる自由なる人間の姿。
自由なる学生の姿。

KGKの「学生主体」とは、神に与えられた自由なる人間(学生)の応答、学生たちのキリストへの服従、献身のことを指す。

そして学生達の躍動感あふれる時期に、主体的に生きている信仰者達との人格的な交わりを通し、明確な聖書の指針と聖書の神学的な基盤を与えられることによって、その後の人生においても、与えられた「自由なる新しさ」を神に用いることが「喜び」となっていく基礎が築かれ、教会人としての主体的な信仰、卒業生主体、主体的なキリスト者の人生を生きていくこととなる。

そしてこの学生の主体的な信仰が育てられるために、主事は学生の側に位置している。

教会から、卒業生から学生の側に送り出された者として。


Andrew Reidとの2時間半は、主事としての「自らの応答と献身」を激しく求められる時間となった。

自らの主事としての「主体的な応答と献身」とは、どう生き、学び続け、語り続けることなのか、

と突きつけられる熱い2時間.

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