KGK大嶋重徳主事の巡回日記

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日本語で説教すること。

今、ガラテヤ書の連続講解説教をシドニー日本語福音教会で行っている。
もちろん牧師がいるわけで、毎週という訳ではない。
幾つかの週の説教をここでし、また幾つかあるシドニーの日本人教会での説教の奉仕をさせてもらっている。

留学前に「日本人教会に行くと、英語のスキルが上がりませんよ。」とアドバイスしてくださる方があった。
確かに、2-3月当初は英語脳を必死につくろうとしている最中に、日本語で説教を作成しようとすると、完全に日本語脳に戻ってしまい、月曜日の授業は全くわからない思いに陥ってしまった。

説教作成はとことん、最もふさわしい日本語の語彙を探しだそうとする作業であるし、日本語としての文脈が通っているか、何度も何度も考え抜く作業である。そしてより私たちの現状に届く説教の言葉を獲得するまで、自分の置かれた現状に、会衆の置かれた日常を思いめぐらし、黙想し、そこから生み出される言葉を得るまで粘りに粘ることとなる。
そして、この作業を英語で行うことはできない。

しかしこの日本語教会の礼拝説教が、留学に大きな意味を持っていることに気がつかされている。
日本語でする説教によって、神学校での学びが、思索として統合されていくのだ。
英語得た情報が、日本語の思索を経て知識となり、神学的思惟となる。

やはり自分の限界であると思うのだが、どうしても自分の深いところでの思索は、英語で行うことはできないし(もちろん浅いところの思惟でさえ行うことは難しいのだが…)、きっとこれからもそうだと思う。
どれだけ日本語に堪能な宣教師の方であっても、その思索は母国語で行うこととなると聞く。

説教という神の国の最前線に立つのだという恐れと緊張感が、神学的思考の動き出しを促し、説教作成において行う黙想が、神学校で学んだ内容を自分の文脈から教会の文脈へと昇華させていってくれる。
その時コミュニケーションの手段としてもおぼつかない英語ではあるが、学んだ内容が初めて自分の神学の思惟の中に落ちていくような思いがする。

説教をする恵みと、説教者である自分のアイデンティティを強く実感させられる日本人教会での説教体験。


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