FC2ブログ

KGK大嶋重徳主事の巡回日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

教会と国家

セオクラシー(Theocrasy)という言葉がある。神権政治という意味を持つ。
これはギリシャ語の神を意味するTheosと、「支配する」という動詞のKrateinをあわせたもので、文字通り「神による支配」を意味する。
そしてセオクラシーとは、神が実際にこの世を治めておられるのであって、神から委託された権能によって、この地上を治める政治形態のことを指す。もしくは宗教的権威が政治的権威の中で同等の意味と権威性を帯びる場合に使われる。
そして多くの場合、これは宗教じみた政治を指して使われ、宗教的権威によって国家を統治するネガティブな表現で使用されることが多い。

しかしキリスト者にとって、このセオクラシーの概念は非常に重要な意味を持つ。
なぜなら終末においては、完全にセオクラシーが実現するからだ。
「キリストによる支配」

ではこの終末のセオクラシーを信じるキリスト者は、どのような態度を政治においても取るべきなのだろうか。

イギリスにおけるアングリカン教会は、正確にはセオクラシーではない。
しかしイギリスは、国家元首である王が、国教である英国国教会の首長を兼ねているという現実を持つ。
しかしイギリス国王のもとには、政治組織のリーダーの首相と、宗教組織のリーダーであるカンタベリー大主教が「独立的」に存在している。この「独立性」が政治的にも明確に区別されているし、王は「君臨すれども統治せず」という慣習法によって、両者をつなぐことはない。英国の政体は神権政治ではない。

しかし今なお、イギリスアングリカンチャーチは、国会(貴族院)に議席を持ち続けている。2009年の貴族院改革があったとはいえ、教会が国会の議席を失うということはない。

つまりアングリカンチャーチは、絶えず法的な意味で国家レベルの決断に政治的にも参与し続けている。それが賛成であっても、反対であっても。

シドニーのアングリカンチャーチは、世界でもオーストラリアでも極めて稀なケースとして堅固な福音主義信仰(ジョンストット、パッカーのように)を堅持しているアングリカンである。つまり教会生活にほとんど福音信仰に違和感を覚えない。
それと同時に、アングリカンチャーチの一員として、社会的関心にも高い意識を持っている。教区内の子どもたちを取り囲む危険な交通事情を変えさせようとする募金活動や、キリスト教信仰に基づいた虐待防止の子育てセミナー開催や、同性婚の法整備に対する政治的告白、働きかけなど、シドニー教区内を高い意識を持って、働きかけ、管理し、祈り、地域の社会的責任を果たそうとする人たちが多くいる。

政治的な意識としては、政策をつくる側に身を置いているなあと思う人が多いのだ。キリスト者として。


ここでの議論は、要するに国家と宗教性について関連である。
国家が宗教性を帯びることの是非についてだ。

例えば国立大学の神学部の是非である。
国立大学の神学部がヨーロッパでも次々と無くなっている。キリスト教から言うと「世俗化」を意味する。学問辛いうと「自由」を意味する。

あるいは教会において「国歌」を歌うことを考えてみる。
あの日本であった大震災の際、シドニーアングリカンでは、日本のための礼拝がささげられた。そこで「君が代」を礼拝内で歌うことについて問い合わせがあった。NZの震災の際は、NZ国歌を歌ったそうである。
英国王室の結婚式では、結婚式のプログラムにおいて高らかにイギリス国歌が歌われる。教会の中でだ。結婚式の式次第に含まれて。
ここにおいてキリスト教徒であることと、オーストラリア国民であることは矛盾していないと考える無自覚さと自明性が垣間見える。
保守的かつ生きた信仰を持っている地域においてより顕著にその姿が見えるように思う。
そしてその場合、「神様がこの国の信仰を守っていてくださるんだよね」という神の支配を信じる素朴な国民信仰として見える。


言いたいことはこうだ。
旧新約聖書を貫いている「神の国」という言葉は、当然のことながら宗教性を帯びている。この言葉はやがて終末において完成し、同時にどこまでも地上性を帯びた言葉である。そして明確に「国」という言葉が使用されている。
この「神の国」が語られている聖書を信じるキリスト者にとって、キリスト者は地上におけるどんな場合も、セオクラシーの視点を失うことは許されない。
なぜならば今もこの地上の「イエス・キリストは王」であるからだ。


では、その場合いかなるセオクラシーを考えるのがふさわしいことなのか。
セオクラシー(神の支配)の視点を維持しつつ生きるとは、日本においてどのような生き方、政治的関わりを意味するのか。


この場合のセオクラシーの自覚を生むのは、終末論である。
終末において、新しい天と新しい地では、それぞれの国の国歌は存在するのか?
無論、しない。
そうであるならば、いかなる歌詞の国歌であっても、新しい歌詞の国歌を作ったとしても、いずれの国であっても、礼拝の中で歌われることはセオクラシーではない。
神の国では世界中の人がひとつにされ、神をほめたたえる。新天新地に国の違いを意味する歌には何の意味もなく、その新天新地の前味を味わう教会の礼拝において、国歌を歌うことは神の家族を冒涜することともなる。
あるいは礼拝で一つの国の歌を歌うことは、そこに出席しているであろう他国籍を持つ礼拝出席者のことを一切考えることをしない姿勢である。
オーストラリア国歌は、アボリジニの人にとって侵略の歴史を意味するし、君が代はいわずもがなである。
歴史性を帯びない国歌などは存在しない。

そしてこの議論もまた歴史性を帯びているのが現実だ。
この議論もまた現実的には国の成立や、歴史的な背景に応じた現実的な議論をするべきである。
そしてその議論におけるキリスト者が思考し取り組もうとする営みには、すでに「宗教性」を帯び、そしてそこはセオクラティックな行動となっていることの自覚が必要なのだ。


日本の場合、このセオクラシーは今日的にも第一には「抵抗」を意味する。
この場合の急務は、国家を非宗教化させることであろう。日本は大嘗祭にも見たように、戦前、戦中における「国家神道」による宗教支配をした国家という歴史を持つ。
さらに、ここ昨今の余りにも酷い裁判状況を見るときに、司法の独立という意味でも正しい民主主義の確立、理念の再建をしなければならないだろう。
さらに戦後、キリスト教的原理によって生み出されたものを評価し、歴史的な神の賜物(教会の信仰告白、悔い改めから生まれた実のり、先人の著作)をこの時代のなかで受け取り直す必要がある。
そして何より、教会の委託された宣教の任務を果たす必要がある。

時に「抵抗」では「形成」に関わることが出来ないではないか、という声もあがる。しかし「形成」に関わろうとして取り込まれてしまっている歴史を振り返る時、「形成」をいう視点をどのような形で実現するかについては、警戒心が絶えず働き続けるのは現実である。
しかし「形成」の視点を失ってしまっては、なんのための「抵抗」なのかを見誤る。


国家の悪魔化を阻止するために、「国家は中立でいるべき」という議論がある。この場合の「宗教的中立」とは、信教の自由の確保であり、いかなる宗教もその自由は確保されて然るべきという主張となるだろう。
しかし、オーストラリアにおいて、小学校の中で「聖書」を教える授業がどんどんと姿を消し、今ではニューサウルズ州のみとなった。大きな原因は、移民政策から生まれた「衝突」である。
国家が宗教的に中立ということになれば、キリスト教側から言うと「聖書」の時間を失い、学校教育の「世俗化」を意味する。
国家が宗教的に中立と立場を取る場合、「イスラム」という宗教国家の形式を明確にとることを目指す宗教形態の中で、キリスト者はイスラムという宗教との衝突を避けることができない。
大学生伝道の現場においても、学内で伝道活動をしようとすると、すぐにイスラム教徒の学生からの反対行動が生まれる。

オーストラリアでも国立大学に神学部は存在しなくなった。
神学とは諸学の関係はいよいよ「宗教学」という形態へと姿を変え、「比較文化論」と形を変えていく。
こうして社会的には「神学」はいよいよ精神化し、内面化し、私人化する。
もちろん神学は教会の業である。しかし教会の業は、世界を射程に常に入れている業である。
こういう中で「近代国家というのは、無神論によって形成されていて、その意味では他学問との対話をしても飲み込まれるだけで、キリスト教文化、キリスト教社会は幻想である」という主張もある。
では以上のような「世俗化」「この時代の流れは、キリスト者として「ふさわしいこと」なのか。「のぞましいこと」なのか。


「市民であり、旅人である」「この世にあって、この世のものならず」性格を保ちつつ、いかなるセオクラシーを形成するかは、それぞれの国によって異なる。
しかしどこの国においても変わることのないのは、「イエスが王」であるというセオクラシーな告白である。
この告白に基づいて、「神の支配」が歴史に、世界に実現するように、今日の営みをどう生きるかが問われていることである。


スポンサーサイト

 | HOME | 

リンク

ネット献金

カテゴリ

未分類 (153)
巡回日記 (196)
独り言 (34)
オフ (23)
グルメ (6)

月別アーカイブ

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。