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KGK大嶋重徳主事の巡回日記

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Oxygen Christian Leaders Conference

アメリカからJohn PiperとイギリスからJohn Lennoxがシドニーに。
「酸素なしで火は燃えない…あなたの情熱を燃やすために」とテーマでカンファレンスが開かれ、
5大陸13カ国からの海外参加者を含め、オーストラリア全土から800を超える教会から、2000名の参加者が集まった。

その名の通り、John Piperの情熱あふれる説教は際立って、圧巻だった。
ジョナサンエドーワドを愛してやまない彼の神学的内容は自分の神学思考とも一致し、
さらに福音派の背景を持つ自分自身が懐かしく、憧れた説教スタイルととても似ている。そして一気にその説教スタイルに引きこまれた。

特に「神を感じる」という「感覚」について取り扱ったところでは、あなたの存在の目的は「神の栄光を褒め称えること」そしてそれは「永遠に神を喜ぶこと」を通して、神の栄光は現れるのだと、「神を喜ぶ」ということは「感情、感覚」を大胆に用いて行うことなのだと。
そして何より、神ご自身がどれほど感情豊かな方なのかということを語っていく。「妬む神、怒る神、喜ぶ神、同情する神」
そして「罪にまみれた感情」との違いを語り、作り変えられていく「感情」とへ話は続く。

さらに「神を考える」というセッションで、
「正しい感情は、正しい知識がつくる。」と、誠実に、正確に神学的な考え、学びを深めることを強く促す。
さらに正しい聖書知識に基づかず怪しげに感覚に訴えるだけのキリスト教っぽいものが増えていることを憂い、警告を発する。自分の頭で考えず、「分かりません」と簡単に言うことは、真理への道を閉ざすのだと。
牧師であり神学者たろうとするJohn Piperの真骨頂であった。

ポストモダンと呼ばれる時代の中で、ユースミニストリーの必要が叫ばれる中で、もっと真剣に聖書から語り続けようとする誠実な姿勢に、この時代の中での預言者たろうとする姿勢を見、率直に感動した。

正確にみ言葉を語ることと、時代に届く感性豊かな説教は矛盾しない。

自分の中でずっと思い描いていたことを言葉にして貰い、改めて深い深呼吸をさせてもらったような思いがするそんなカンファレンス。

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山の登り方

ここ最近、ブログを書いては止めて、書いては止めて…を繰り返してきた。
自分の中の思考がうまく言葉にならないからだ。
何を書いても「今、自分が本当に考えていることなのか。」と思うと、本当に言葉が落ちきっていないような不安な感覚に陥っていた。
何か甘ったるい、それでいて空虚な言葉の羅列であるような気がして。


その原因は、残りのシドニー滞在の終わりが少しづつ見えてきたことにあるのだろうと思う。
そして自分自身がここで何を見て、何を考えて、何を受け取ってきたのかをまとめようという作業に入ったからなのだと思う。
「ここにきて、それでいいのか。」という思いもあり、
学んでいることの全貌が明らかになればなるほど、その途方もなく大きい山の剣峰を見て、
「本当にこの山は越えられるのか。」という思いになり、
結局、1年で出来ることは限られているのだから、落ち着いて、じっくりゆっくり始めて行こうと思っても、生来の自分の気質が
「何とかかたちにしないといけないんじゃないの。」という思いになる。


そして黙々とある本を訳をしながらも、自分の言葉が自分の思考の言葉として躍動してこない焦りにここ数週間ずっぽりとはまっていたように思う。


そんな自分を助けだしてくれたものが2つある。
ひとつは説教だ。
あの説教壇に向かうことが、考えていることを文字に落とさざるを得ない緊張へと連れていってくれる。
適当な釈義と適当な注解の発見では、説教ができない。全体重を載せて、確信を持って神の言葉の宣言へとは迎えない。
そして何より説教において取り扱っているのは、神の言葉だ。
この上からの緊張感が、自分の中の曖昧でまだまだ不安な思考を、説教の言葉へと書き起こしていくことに強烈な圧力を与えてくる。
神の言葉は「何も考えていない」を許さない。
神の言葉は「何か人間的なかたち」ある結果を求めてはいない。
ただ神の言葉として語られることを、圧倒的に求めてくるのだ。
要は、その召しに忠実に従うのか、従わないのかということだけが求められている。


もう一つのことは、恩師の神学講演原稿だ。
以前から「欲しいんです。」とお願いし、「大嶋さん、欲しいでしょ。」と言われ、送ってくださった原稿を読んだ時、文字通り稲妻が走った。
ここに来て見えてきた山の全貌を見て、山の麓から右往左往して、その山の下をグルグルと焦って走っていた自分がいたことに気がつかされた。

その論文は、「この山を眺める角度」について、
「どこのルートからこの山を登るのか?」について、
そしてこのルートこそ、自分が今まで登ってきたルートであり、登る技術も今までにトレーニングしてきたルートだと思い知らされた。
中途半端に「別ルートで登るイメージ」だけが先行し、そこから登れる技術もないのに(そこから登るなら、それに至る神学の学びが数年かかるだろう)、焦っていたように思う。

しかし自分の神学的人生を決定したこれまでのルートを、黙々と登り続けている偉大な恩師と先人の姿が薄靄の中見えてきた時、自分のなすべき作業は、今まで歩いてきた道をやはり一歩、また一歩と歩き続けていくことなのだと。

そして登り続けていく中で、別のルートの登り方をしてきた人とも近い場所で対話ができるのだと。
それぞれの見えてきた景色について分かち合い、それぞれの神学のルートへの尊敬を込めながら、
「神の言葉を、神の言葉として語られる」ことを共に目指してきた者同士の敬意がそこに生まれるのだろう。


与えられた学びの時間は、シドニーにいる時だけではない。
人生をかけた登頂である。
人生をかけた学びを続けるのみだ。


今回のバタバタした自分のあせりや迷いによって、見せてもらった経験も貴重な経験なんだろうと思う。


さて落ち着いてもう一度、本を訳する作業に戻ろう。



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