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KGK大嶋重徳主事の巡回日記

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天国にが眼鏡屋があるのか?」

「天国には眼鏡屋があるのだろうか」
神学生の頃から考えてきた一つの試論。

言わんとすることは、天国で視力はどうなっているのか?ということ。
回復しているのだろうか。
ではその場合の、「回復」とは何を意味するのだろうか。視力が1.5になっていることなのか。それとも1.0ぐらいなのか。
全てが完成する終末において、視力が完成するとは一体どのような状態を意味するのだろうか。

私たちの身体には、あるいは様々な理解力には、生活を営む能力には、こころの様子には、いわゆる「障害」「障碍」「ハンディキャップ」(これらの言葉を使用したいと思っていないけれど)と呼ばれる状態がある。

視力の強弱は、私たちの罪の結果ではない。
この状態が、終末において私たちの肉体が復活し、完成された状態ではどうなっているだろうか、ということ。
ヨハネ福音書は、生まれながら目の見えない男性に「神のわざがこの人に現れるため」とイエスキリストが語られたことを記す。
この「神のわざがこの人に現れる」とは、いわゆる視力が回復することをあの記事は語っているのだろうか。確かに一見そのように見える。
しかし彼が視力を手に入れて、目にした最初の光景は、目が見えるようになった自分への好奇心と、自分の目を開けてくれたイエスを殺そうとするパリサイ人の憎悪と、その憎悪を恐れ、自分を見捨てた親の姿であった。

しかしキリストの言葉に従い、キリストの言葉通りに目を洗い、目が見えるようになった彼は自分の取り囲む「あなたの目が見えないのは罪が原因」という世界に厳然と立ち向かった。
ここで彼が「そうですか。イエスってのは悪いやつですね。そんな人だったら直されなかったほうが良かったですね。」と言っておけば、彼はこの街で生き続けられた。
しかしそれでは彼の目はまだ開いてはいない。
パリサイ人達の前で罵られながら「イエスとは誰か」と問いただされた時も、自分の言葉によってこの街を追い出されることとなったとしても、彼は「だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」と語りぬいた。
街を追放された彼に、主イエスキリストは現れてくださった。
そして彼は言う。「主よ。信じます。」ここに信仰告白という神のわざが生まれた。

目が見えないことは、罪ではない。
この箇所でもっとも深刻なのは、「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。」と問う弟子たちであり、それが当然とされていたその社会性である。
目が見えないこととは、劣った人間の体だと、劣った人間の能力だと考えてしまうところに、深刻な人間の罪がある。

しかし、こういう問いが起こる。「病は堕落の影響ではないのか。」

確かに人間は罪の結果、死ぬ者となった。
死の原因となる「病」も堕落の結果と言うこととなるのだろう。
しかし、「非常に良かった」と言われた創造の被造世界には、「耕す」という労働があった。良き創造は完成に向かうための「未完成」の神の国の出発点である。
人間にはこの神の国の完成のために、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従えよ。」という神の命令を遂行する使命と責任が与えられたのだ。
ここの労働には「汗をかく」ということは含まれなかったのだろうか。そんなことはないだろう。
ここの労働には「疲労する」ということがなかったのだろうか。そんなことはないだろう。
ここの労働には「何かを誤って、ケガをする」ということが含まれなかったのだろうか。
汗をかいて体が冷えて、風邪を引くということはなかったのだろうか。
「生んで、増えて、地に満ちていく」なかで、けがを治癒する専門の医者が生まれてくることはなかっただろうか。

確かに罪の結果、女には「わたしはあなたのうめきと苦しみと大いに増す。あなたは苦しんで子を産まないといけない。」という結果がもたらされた。
しかし言葉じりを捉えるわけではないが、「大いに増す」前にも少しでも「苦しみ」と呼ばれるものはあったのではないか。しかしその苦しみが「苦しみ」と感じることがないほどの喜びに包まれ、出産も子育ても罪の中におかれることのないくらいに。
アダムには「あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。」とあるように、労働は苦しみとなり、創造の使命である神の国の建設を見失い、生きる意味がわからなくなり、虚しさだけが人間を襲った。そして人間はいつかは「死ぬ」という事実に、「苦しみ」は神の国の完成への希望を意味すること無く、本当に「苦しみ」となった。

しかしエデンの園で、子どもたちに向かって「神を畏れ、『取って食べてはならない実がある』という神の約束を守ることを促し、神との交わりに生きるために造られた喜びと、この世界は神の国の完成に向かう良き創造で、この世界の管理を委ねられているダイナミックさを」、子どもたちに勉強を教えるための学校をつくろうとすることは、「耕す」という言葉のなかに含まれていなかったのだろうか。
そしてその学校の教師になるために、被造世界の理屈を学び、勉強を続け、視力が少し弱くなるということはなかったのだろうか。(罪に陥ることのない勉強は視力が弱くなるほど、体に負担をかけないものなかもしれないが…)

病は罪の結果ではない。
「福音書では、あれほどイエスキリストはなぜ人の体を癒された記事をするのか。」という問いもあるだろう。
しかしイエス・キリストは、ベテスダの池でもそこにいる全員の病を癒されたのではない。「良くなりたいか?」と聞かれ、「よくなりたい」と答えることも出来ない彼だけを癒された。他にはもっと「よくなりたい」と願う人たちは沢山いただろうに。
イエスキリストの癒しの目的は、神の栄光が現れることである。「一般」の体に戻すことがイエスキリストの目的ではない。

ではこういう問いが語られるだろう。
では神は、創造の最初から、神のかたちに似せて「障碍」を創造したのだろうか。
神のかたちは「完全」ではないのか?

では、逆に言うならば、「神のかたちの完全」とは何か?無論、神は完全である。しかし神の完全は、私たちの罪に影響された「完全」を考える思考とは大きな開きがある。
当然のごとく、私たちは神のかたちに似せて造られた。
しかし私たちの知性には、「普通」と呼ばれる人間にも大きな開きがある。
私の運動能力にも、知的な能力にも、オリンピック選手や学者と呼ばれる人たちの間には大きな開きはある。
神のかたちは、広くて大きい。そしてそこには私たちが勝手に「障害」、「ハンディキャップ」と呼んでいるものが含み込まれるのではないか。
むしろ私たちが考えなければならないことは、私たちが何を「標準」と理解し、何を「ノーマル」とし、何を「完全」と考えるのかということの方ではないか。

キリストの受肉を考えてみよう。
イエスキリストの受肉は、神である方が人間の肉体を帯びられた。人間という限界のある肉体を、神が選び取られたのだ。疲れてしまう肉体を、空腹を覚える肉体を。神ご自身がハンディキャップを帯びられたのだ。神は人間の体を帯びることを神は肯定されている。

復活のキリストの体はどうだ。
イエスキリストの復活の体には、十字架の釘の跡が残っている。その場合、天国における「完全」とは一体、何なのか?
そこに厳然として残っている「傷」である。
完成された「傷」。
傷それ自身が、父なる神の右の座に今もある。

もちろん「天国では元気で走り回れるんだろう」と祈っておられる方がおられることを知っている。
私もまた「癒し」を信じて祈り続けている方々がいる。
それほどこの世界は、いわゆる「元気で走り回れる」ことが出来ないことが不自由をもたらす世界となっている。
「標準」と呼ばれる人たちサイズに作られ、「通常」と呼ばれる人たちが使いやすいように作られている。そして「標準」「通常」「一般」と呼ばれる人達が、ある特徴を持った人を差別し、「ふつうじゃないよね」と平気で考え、あるいは無関心に生きていることにも罪深さを覚えることなく生きることの出来る世界がここにある。

しかしここにこそ深刻な人間の罪の姿がある。
解決されるべきなのは「障碍」と呼ばれるものではなく、私たちの持つ「一般」「通常」「標準」というモノの考え方である。
そしてその考えのまま、「普通」に生きていることである。

新天新地において「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」と言われる事態は、悲しみを悲しみのまま受け止めなければならない事態ではなく、それを「悲しみ、叫び、苦しみではない」と受け止めることの出来る事態のことだ。
そこからは、新たな悲しみが起こされることはない。
そこには人間の持つ「さげすみ」「差別」も、「普通」という言葉におびやかされることもない。
終末において一切の私たちの罪深い現実は完全に裁かれ、私たちの日常とは完全に「非連続」となる。

そこを仰ぎ見る時、今、地上のここにある幾つもの痛みのある事実を受け止め、あるいは寄り添うことの出来る信仰が与えられるのではないかと思うのだ。
自分の理想を神に押し付けるのではなく、自分自身の固執している「理想」「一般」「通常」「標準」を解き放つことの出来る神の国の完成を待ち焦がれながら、地上にある痛みや悲しみに寄り添いながら生きていく。
ここにキリストの寄り添われた姿があるのではないか。
このようなところにキリストが指し示された神の国があるのではないのか。
天国で当然のごとく「健常の体なのだ」と自明に考える人間の罪深さが全部取り払われる時、そこでは地上においても神が拭ってくださる目の涙、「もう泣かなくて良い」と言われる事態のはじまりが起こっている。

こう考えていく時「癒し」を売り物にするキリスト教は意味を失う。
祈りの結果が「癒されなくても」、そこにある苦しみと共に忍耐ぶかく生きることの出来る希望のあるところに神の栄光は現れている。
「祈りが足りなかった」「信仰が足りなかった」「悔い改めが足りなかった」と人から責められ、あるいは自分で自分を責めることをしなくとも良い信仰。
目の前におかれた日常を誠実に生き、自らの犯す罪を誠実に悔い改め、神の主権をただ信じ、終末の完成の希望を仰ぐことの出来る信仰、神の国建設に参与しようとする創造の使命の回復。

私はもちろんこの地上における神の癒しがあることを100%信じている。
そして今も幾人もの方々の癒しを信じ、祈り続けている。そしてその祈りの結果の多くを神様から受け取っている。
それと同時に、私が癒しを願っている方々から教えられてきたことはこうだ。

「弱さ」もまた神の栄光。
「痛み」もまた神の栄光。
「貧しさ」もまた神の栄光。
キリストが選び取られた方は、いつも人間の考える「栄光」と異なる。山上の垂訓のごとく。イザヤの語った救い主のごとく。

もちろん大切なことは、聖書の記していないことには、口を噤むべきだ。
地上において分からないことは多すぎる。御国に行ってからイエス様に聞きたいと思うことを抱えながら、生きていくことが大切だ。
自分には終末の「完成」を知るのに限界があることを自覚しておかなければならない。

しかし終末の完成の際私たちが立つこととなる場所から、私たちの日常を見つめ直そうと神学的な思考を続けていく時、私たちは私たちが「自明」と思っていたことに鋭い光が私たちの闇に当たる。
「当然」と思っている自分の思考と生き方が、罪に犯されていることにも思いが向く。
この時代に、どちらに向いて生きて行かないといけないのか、何と戦わないといけないのかに気がつかされる。
終末からものを見ることは、私たちの信仰を彼岸から此岸にある現実へと思いを向かせ、終末の完成に続く「連続」と断絶される「非連続」の違いに冷静に目を向けさせる。
そこから見えるキリスト者の選択。

キリスト教倫理とは、このように始まる。

「天国に眼鏡屋があるんじゃないだろうか。」
神の栄光を現す完成された眼鏡。一体、どんな眼鏡なんだろう。
とても優しいレンズで、イエス様がよく見えるんだろうな。

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世界が手元にくる

シドニーの空港に現れた家族。「おとうさーん」と変わらず胸に飛び込んで来てくれた彼らは、父親と離れて過ごしてきた半年で、少し大人びて、頼りがいのある様子で大きなスーツケースを持ちながら、ボクの前に登場した。

そしてその日から、子どもたちに見せたい、連れていきたいと思っていた全てを、多くの人の支えの中で、思い残すところ無く過ごすことの出来た濃密な濃密な20日間。
あっという間に時間は過ぎて、再びの「泣くのは禁止」の約束でいろんな感情をグッと飲み込んで、彼らはシドニーを旅立っっていった。

家族を見送った後に急激に起こったしばしの放心状態、そして取り囲む寂しさという感情。

何だか泣きそうになりながら、空港から地下鉄に乗り込む。
地下鉄の窓の暗闇を見ながら、この期間過ごしたいろんな時間を思い出す。

「少しぐらいホームシックにかかったっていいじゃないか。」
「30代だって寂しい時は寂しいんだ…」


そしてそこで思い出した一つの言葉。

「父親が海外で勉強をしているということが、世界が子どもたちの手元に来ることになるから。」

昨年末海外研修の前に、神学校の元校長を訪ねた際の時の言葉。
ドイツ、オランダを留学をし、ご家族で海外生活をされた校長の言葉にその時、本当に励まされた。


そしていま、「確かにそうだったなあ」と思う。


見る光景の全てが自分の住んでいるところとは違い、
街を歩く人の皮膚の色も、眼の色も、言葉の訛り(彼らには一緒に聞こえただろうけど)が、目の前にいる人の全員が違っていて、
「みんな一緒」となんてことはどこにもなく、
「日本人なら、当然そうでしょ。」ということが、「他の国では当然違うでしょ」になるらしいとか、
彼らの目に映ったいろんなことを、いろいろと考えているように見えた20日間。


「よかった。」

センチメンタルな気持ちは今夜だけにしておいて、明日からはもう一度勉強に取り掛かろう。


眠る妻

張り切っていろいろと連れていこう目論んだボクの目の前に現れたのは、「眠り続ける妻」の姿。

「やっぱり安心するよね。あなたがいると…。」
そしてひたすらな眠り続ける。
「地震のあとから、やっぱり何かあったらと思うと深く眠れていないのかも…。」

眠る妻を隣に見ながら、
「本当に毎日緊張しながら、子どもたちを守って来てくれたんだなあ。」としみじみと思う。
疲れきった妻を隣に見ながら、
「眠れるだけ寝かせてあげよう…」と若干のスケジュール調整。

そして妻が少しづつ回復して、「きゃー楽しい」と言いながら、神学校やオーストラリアで出来た人間関係のなかを一緒に過ごしたシドニー20日間。


そして帰りの日が近づいた頃、妻は言った。

「やっぱり私たちが一緒に来なくてよかったね。
 一緒に来ていたらあなたはこれほど勉強出来なかったと思うよ。」

凄い。

そう言うと、妻は起き上がり、子どもたちと旅立っていった。
「じゃあ、日本で待っているからね。」


残された勉強の機会を精一杯やり抜いて、妻をもう一度ゆっくりと眠らせてあげること。

帰国後は、彼女がぐっすりと眠れるような日本での旅のしおりをつくってみよう。


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