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KGK大嶋重徳主事の巡回日記

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妻の支え

「私がこどもたちと一緒にいるから、あなたが一人で勉強してきて。」
と妻が言ってくれた。

「だって、ずっと勉強できるようにお祈りしてきたんだもんね。」

妻の決断に支えられて、学びへの準備を少しづつ始めていく数ヶ月。
しかし徐々に妻の顔に陰る不安。

年末、私たち夫婦のことをいつも祈り、そしてあたたかく聞いてくださる唄野先生ご夫妻のところに家族で訪ねた。「泊まっていってくださいね。」というご好意に甘えて1泊させていただきながら、お交わりさせて頂く。

早朝の早天祈祷会に間にあうように夜に車を走らせて、大阪へ向かう。
今からの一年なんて大したことじゃないかのように、二人で笑いながら大阪へと向かう。

朝の祈り。第二歴代誌36章。
「これはエレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は70年が満ちるまで安息を得た。」
御言葉が語られる。
そしてあたたかく、豊かな人格的な1日が過ぎていく。
唄野先生も、イギリスで1年間家族と離れて研修を取られていた。
「遠くに離れているからこそ、大阪におる時よりも家族のことを考えているんやなあ。子どもたち一人ひとりのことを考えて、毎日はがきを書いたなあ。あれが僕にとっても家族との関係が深まったときかもしらんなあ。」

翌朝、2日目の早天祈祷会。エズラ記1章。
「そこでユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために立ち上がった。彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。」

隣に座る妻が泣いている。

「私が最初に香澄の言葉を聞いた時、あなたが一人で行くことが最善なんだと思ったの。いろんな状況を考えて、これがベストなんだと。でもそれが神様の御心に適うことなのか、それがわからないまま来てたんだよね。そしてずっと考えないようにしてきた。『一年ぐらいなんとかなる。』と自分に言い聞かせながら…」

そして妻は言った。

「私のえりすぐりの最善のものはあなたなの。でも神様は『えりすぐりのものをささげなさい』って。
あなたをささげることが、神様の御心なの。
シドニーに送り出すことは、「あなたをささげなさい」と言われている神様のみこころだからなんだね。」

「もうわかった。大丈夫。」

妻は泣きながら笑顔になった。
「神にその霊を奮い立たされ」た妻の姿がそこにあった。

この神の言葉の前に立ち上がる妻の言葉を受け止めながら、
「自分は何をささげることが神の御心なのか。」と激しく思いが心のなかを巡りに巡る。

ずっと前から、妻が深いところで求めている願いがあることを、私は知っていた。


それは日ごとに夫婦で祈りあう時間を持つこと。


妻と日々、御言葉を読み、祈る。伝道者ならばきっと当然の姿なんだろうだと思っていた。

でも私の現実は、「忙しいから」と、「今日は朝早いから」と、「説教の準備があるから」と、妻の手を握り、祈ることから遠ざかる日々。


シドニーに来てからの5ヶ月。
毎朝7時半、子どもたちを家から送り出してから、スカイプの前に座り、妻と御言を共に読み、祈る時間を持つようになった。
そして神学校へと行く。

夜には子どもたちがスカイプの前に集まってきて、家庭礼拝の時間を持つ。


私は今、スカイプ越しに妻の手を握っている。


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家族が来る。

夏休み。
妻と子どもたちがオーストラリアにやってくる。

早く会いたい。
昨日は、妻と子どもたちのために家から飛行機に乗り込むまでの順番を書いた「旅のしおり」を熱心につくり、オーストラリアで家族で行こうと思っているツアーコースを紹介するパンフレットをつくるぐらい、一人で家族が来ることに盛り上がっている。


この1年間の学びのために、送り出してくれた家族。


2月オーストラリアに出発するその日まで、毎晩、毎晩涙がこぼれてくるのを止められない子どもたち。

出発の朝。
別れ際はつらくなるから、子どもたちが学校から帰ってくる前に、出発しようと決めていた。

その日の朝、「泣かないで学校に行こうね」と約束していたにも関わらず、二人の子どもたちが少し涙を流しながら「お父さんへ 飛行機の中で見てね。」というカバンをくれた。
ボクにずっと秘密で準備していたプレゼント。

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子どもたちを送り出して、飛行機に乗るまでの約束を守れずに、妻と一緒にそのカバンの中身を開けてみた。

中にあったのは、

みことばカード
チョコレート
つぶバナナ(クッキー)
スティッチのメモ帳
ポムポムプリンのメモ帳
えんぴつ2本
トミカのパトカー
ハムスターのポストカード
エコバッグ
ハンカチ
手作り紙粘土の板チョコ
ハートの形のろうそく


全部、全部、子どもたちの大切な宝物。


そして、手紙がふたつ。

♡お父さんへ☆
シドニーがんばってね。今、ひこうのきの中かな。シドニーの勉強頑張ってね。
手作りのバッグがあるから使ってね。
夜の8時に時間を決めて、スカイプで会おうね。
さみしいけど、10ヶ月がんばろうね。
大好き♡ かすみ

おとうさんへ
シドニー ガ・ン・バ・レ
帰ったら、いっぱいぎゅっとしてね。
べんきょうがんばってね!!
とくより



最後に小さなお財布。
中には100円玉が6枚。

そして小さなメモ。
「300円は献金です。300円はお父さんが使ってください。」

普段、お小遣いをあげてもいないのに、大切な大切に貯めたお金な筈なのに。



号泣した。



「神様がお父さんをシドニーで勉強するようにされたんだ。」
彼らの小さな心とからだで、必死でこの1年を受けとめようとしてくれた大きな、大きな信仰と愛。


この子どもたちに送り出されて、今、ここにいる。

この国で、頑張れる大きな理由。


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いよいよ今週から2nd semester!

いよいよ、今週から第二学期がスタート。
休みの期間中に、幾つかの本を読んで、後期に備える。

1冊は、J.DoumaのResponsible Conduct.
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J.Doumaは、1997年までオランダのカンペンにある改革派神学校の倫理学の教授。
神学校卒業時に「いつかは読むぞ」と購入しつつも、長い間、積ん読状態であった。しかしオーストラリアに一緒に連れてきた。

キリスト教倫理学と一口に言っても、その神学背景の成り立ちによって、構成はずいぶんと違う。

今、勉強しているMoore Collegeは、聖書学がベースの神学校(これもイギリスを背景にしたアングリカンだなあと思う)。
聖書学から直接に倫理学に向かう場合と、改革派神学のように組織神学の一部を構成する倫理学とは切り口も、語り口も、本当に違う。

最初はその授業に随分と戸惑いを感じていたのだが、2学期が始まるまでの休みの期間に、こちらの教授の書いた倫理学の本を幾つか読み、こちらの倫理学の捉え方、ものの見方をキャッチしようとしばし務めた。

ちなみに今、追いかけている先生の本はこちら。今年IVPから出版。
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聖書学の世界で記される倫理学。聖書学と解釈学の関係もきちんと抑えないと、本当に言わんとしていることは掴めない。

「勉強することが山ほどあるなあ」ということが分かってきたところにようやく辿り着いた気がする。
日本に持ち帰ることも多々ありそうだけど、神学は自分がどこに立っているのかを認識し、どこから始めて、どこに行こうとするのが掴めるまでが一番大事だと思う。

さあ、第二学期が始まる!!

あせらず、地道に、幾つかの本を読み続けていこう。


Annual Conferenceの最大の試練

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Annual Conferenceでは、マルタ島で働いている元シドニー大の卒業生の宣教師や、宣教師リクルーターをしている宣教団体のスタッフや、トンガから2名の学生が招待されていたりと、1大学で行われているにも関わらず国際色豊かだ。
世界中に宣教師を送り出しているオーストラリアならではと、学生達の目をいつも世界に向けさせようとする宣教的意識の表れ。

そしてそんなゲストたちの一人として、日本からのやって来たKGKの主事としてちょっとした紹介をオープニングのステージ上で受けた。
「まあまあ、そんなことはあるだろう。」ぐらいの予想はしていたので、気軽に上がって小さなボケをかまして、この日は終了。


しかし、しかし3日目の朝。

「聞いているよね?」
とあるスタッフと学生のリーダー(こちらではプレジデントと言う)、近寄ってくる。

「うん?」

「明日のインタビューだけど…。」
確かに参加するときに「インタビューとかあるかもしれないですよー。」と言われていたけれども、当日までも何もなかったし、この日まで何もなかったし、まあこの感じだとないよな、と思ったいたのに…。


まじで?


えっまじで?



「何、聞くの?」
「うん、日本の学生伝道の状況について…」


このインタビュー形式はオーストラリアの文化なんだろうか。
講師紹介とか、ミニストリーの紹介とかはほとんどの場合、インタビュー形式で行われる。
インタビューのいいところは、いたずらにだらだらと長い時間スピーチされずに済むこと。
(「では一言お願いします」と言って一言で済まないケースが日本でも多々あるから、よく分かる。)
主催者側が聞きたいことを話してもらえることと。

常々、「ああ、いい方法だなあ」と思って、遠目から眺めてきた。
でも、自分が受けるとなったら問題はとてもなく発生してくる。


だって聞かれている質問がうまく聞き取れなかったら、どうしようもない。
あるいは聞き取れたとして、インタビューは即座に答えられる軽妙なアドリブ力(返しの力)がないと、成立しない。
「きっとこいうことを聞かれるだろうなあ」と思って入念な準備をしたとしても、それを聞かれずに、全く想定外のことを聞かれたら、一巻の終わり。


すぐさまステージ上でオロオロとし、頭が真っ白になっている自分の姿と、そんな自分を見て困り果てているインタビュアーの姿が頭の中を駆け巡る。


まじで?
えっまじで?

やるの俺?
うそ、やる?

ああ、俺、主事だ。
やるしかない。
だって学生に頼まれているんだし。

断っちゃいけないよな、ここで。



「ってか、じゃあさあ。」

腹を決める。

「俺はきっとこう言うことを話すだろうからさあ。そういうことを聞いてよ!頼むから!!!」
という思いを込めて、インタビュアーの学生と話し込む。
「頼む、頼むよ。変化球はなしだよ!この手の話で行こうね。絶対!」と思いながら…。


そしてその時間から、翌朝までのナーバス度全開。
最近の人生でのナーバス度TOP3入りは確実。
(本来、人前に立ってもあまり緊張しないタイプで人数の多さにビビったことはないのに…。英語だというだけで、こんなに気が重くなるのかと実感)

そして翌朝。
もう朝から吐きそう。


「全然平気なんですけど」と顔をしようと思っていても、顔がひきつっていることを隠せない…。


そして、ついにその時間。
インタビューを受ける他の3人と一緒にステージに上がる。
意識的に一番遠い席を確保。


あとは必死。
「必ず死ぬ」と書いて、必死。

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そして日本にクリスチャンが少ないこと。
でもKGKの学生たちは、神様から学内に派遣されたと受け取ったら、彼らはどんなに人数が少なくても祈祷会や聖研を始めようとすることや、
そしてそんな学生達を誇りに思っていることや、
KGKの主事は一人で15~20近い大学を担当していて、助け手が必要なことや
(「そう、それは君かもしれないよ」と言ってみたり)
震災のあった東北に、KGKの学生や主事や卒業生がボランティアに出かけていることや、
韓国やマレーシアからも今月ボランティアに加わろうとしてくれていることや、
その他いろいろなことを話そうとしたけど…。


はあああああ。沈。

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激しく沈んだ。


でもその後ランチタイムやフリータイムで
「話していいですか?」
と日本の宣教の状況を「もっと聞きたい」言ってくれる学生達が何人も、そう10数人も話を聞きに来てくれた。


あああ、もしかしたらちょっとは届いたのかなあ。

そして彼らは日本宣教のために祈ってくれるだろうなあ。

もしかするとここから日本宣教を志して、日本で会える人が出てくるかもなあ。


終わって、ほっとしてから、考えて嬉しくなったこと。


留学生伝道

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Annual Conferenceに参加して得た最大の収穫は、留学生伝道の実際を経験できたこと。

それまで留学生伝道をするのは難しくて「英語力が堪能で、さらに中国語も出来る主事がいないと、「やれないのかなあ」と思っていたし、
事実いくつかの学内聖研にも、留学生が来てくれてもなかなか続かないのが現実。
「惜しいなあ。何とかしたいなあ。」とずっと思っていた。

しかし、こちらの留学生伝道(FOCUS)は、中国語なんて話せるスタッフは全くいない。
ただシンプルな英語、留学生たちが最初に習うような英語を使って、易しい英語のメッセージがされる。

Annual Conference中も、黙示録の説教(これは留学生には難しい)と並行して留学生グループがの集会があった。そしてエペソ書からの伝道説教が、留学生伝道担当の主事から行われる。
これがまあ実にわかりやすい!!!(僕でも分かる!)
パワーポイントが使われ、説教のフル原稿も渡され、視覚的にもサポートされている。(文字があると本当に助かる)
そしてそのグループで、易しい、優しい分かち合いも行われる。(これも僕でも分かる!)

そしてそのプログラムには、留学生伝道に重荷を持っているオーストラリアローカルの学生も7,8名が絶えず参加している。(もちろん黙示録の講解説教に行ってもOK。)


留学生伝道に必要なのは、英語でも中国語に堪能であることではなく、彼らと共に時間を過ごし、友だちになりたいと願うやさしい日本語の仕える日本人なのだ。


留学生たちは、孤独を抱えて毎日を過している。(ボクもその一人だ)
そして現地の友達が欲しいなあと思いながら、会話のスピードの速さについていけず、毎日、毎日心が折れそうになりながらも、授業についていくのにひたすら必死だ。(ボクもその一人だ)

そんな時に、分かりやすい英語で話してくれて、自分のたどたどしい英語を、嫌な顔をせずに、困った顔をせずにゆっくりと耳を傾けてくれて、そして少し言葉を直してくれて、困ったことがある時に電話かメールで助けを求めることが出来て、レポートも少し直してくれたりする人がいたら…。(ずっと欲しかったし、事実いてくれた。)
どんなに大きな助けとなるだろうか。(易しい英語を使ってくれる人だというだけで、親切でいいクリスチャンに違いないと思い込むほど)

そしてそんなことをしてくれる人の向こう側にあるものに、関心を持たざるを得ない。(そして、自分はこんなに留学生たちに優しくなかったなあ、と反省が込み上げてくる)

留学生たちは、大きな志を持ってやってくる。(そう、ボクもそうだ。)
しかしすぐにぶつかるのは、自分の無力さと限界だ。(間違いなく。)
そしてそれを感じても助けてくれる友達や家族が側にいるわけでもない。(スカイプで少々愚痴るだけ。)
そんな時に「神様がいるよ。」
「神はあなたのそばにいる」
「神様が守ってくれる」
「神様に祈ってみることが出来る」という言葉がどれほど真実味を持って、力となるだろうか。(うん、神様がとても近く感じる)


特に神を信じることをしない国の文化の中で育ってきて者にとって、
結局、信じるのは自分の力だけ、自分の努力だけ、と思ってきた者にとって、
自分の努力を信じられないほど、挫折をさせられる経験のなかで、
考える時間だけは恐ろしいほどある経験の中で、

「神がいる」
「神を信じて生きている人がいる」

という響きが、どれほど心と思いを上へと向けるチャンスとなるだろうか。


このカンファレンス期間中、2日目昼。
一人の留学生が神を信じ、キリスト者になった。
母国に帰ると起こるであろう想像を絶する戦いのことを思いながらも、

彼はキリストと生きることを選びとった。


その彼の回りには、やさしい英語で、やさしい表情で、やさしい友情を示し続けてきたローカルの主事と学生達が取り囲んでいた。


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Sydney uni Annual Conference

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神学校の1stsemesterが終わり、早速Sydney大学のAnnual Conferenceに参加した。
参加者数600名。シニアスタッフが8名、Apprennticeが15名。日本の全国集会、アジアのEARC並のカンファレンスを1大学でやっている迫力。

内容も、構成も、プログラムもKGK各地区でやっている春期学校とほぼ同じ。
学生のカンファレンスであるために食事が結構残念なところも、ほぼ同じ。
学生達が賛美のバンドを組み、司会をし、新入生を歓迎するプログラムを作っているのもほぼ同じ。
ここにも学生主体はしっかりと根づいている。

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テーマは「教会」
そしてこの内容を、招いた講師が黙示録を3回、聖書講解。
そして「教会」のテーマを、神学的に、聖書的にがっちりと7回(7回ですよ!!!)。
一人のシニア主事が7回全部を話す。
しかもほぼ毎回説教は90分から120分。これが圧巻。
うまい!
学生を飽きさせず、旧約から、新約から、「仕える」という観点から、「臨在」から、礼拝論的にも、終末論的にも、様々な角度から教会を語り尽くしていく。
凄い準備だっただろうなあと、同業者だからこそよくわかる。
そしてこれを彼は毎年、やっている。

このガチなテーマにも関わらず、神学的にもガチガチ行くにも関わらず、回りの学生を見ると、ほとんど寝ていない…笑。

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思わず「こういうガチな説教を聴き慣れているの?」と聞くと、
オーストラリアの教会の説教はほとんど20分ぐらいだそう。
(これは世界共通だろうけど、どんどん説教時間が短くなっていると思われる)

でもシドニー大学では、毎週、パブリックミーティングという聖書講解が学内で行われている。
そして60分近く聴き続け、「あともう少し聞きたいなあ」と思いながらいるから、「こういう思いっきり学べるのは嬉しいのよねー」
こういう歯ごたえのある説教を聞く耳が通常から鍛えられているんだなあ…と思う。
重要な耳トレ。

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この圧倒的な説教力のあるシニア主事がいるのと同時に、チームで働いているのがこの主事チームの魅力。

毎朝のスタッフミーティングにも欠かさず参加したのだが、
1to1させたら凄腕!という主事もいたり、
痛みを持った学生に寄り添うならこの主事!、
世界宣教への宣教のチャレンジをさせたらこの主事!、
イスラム宣教にものすごい情熱を持っている主事、
留学生伝道のプロフェッショナルはこの人!

というように、バラエティに富んだ主事たちが一緒に働いている。
そして互いに尊敬し合いながら…。
KGKだと「この人はあの〇〇主事だなあ」とか思いながら、このシドニー大主事チームの交わりの豊かさをしばし楽しむ。


それと「いいなあ」と思ったのが、主事たちが「もっと学生の馬鹿げたアイデアを励まそうよ!」と確認しあっていたところ。

学部別ミーティング(こちらは学部ごとに、聖研があり、祈り会がある)では、
理学部は1回生歓迎のために、シェービングクリームお塗りたくるゲームをしていたり(誰が勝つのか全く分からない…日本でやったら引くなあ…。女の子もクリームまみれだったし)

中日の水曜夜には、深夜までダンスナイト、ディスコ(DJもちゃんといる)、ライブ、外で映画など、学生達が好き好きに遊びまくっている。
毎回の集会の賛美も、結構斬新なアレンジを、フルバンドでやっている。


学生達は、おもいっきり自分たちのが生きている時代にあわせた集会を作り、賛美をし、遊びまくっている。
そして、主事たちはおもいっきり彼らが生きている時代に、聖書で語りこんでいく。


この互いに尊敬しあう関係が、「いいなあ」と思ったシドニー大の春期学校。



「休もう」という国オーストラリア

「最近、幾つかの仕事で行き詰まっているんだよねー。」
「そうか、休みをとったら?」
へえええ、そこでそういうアドバイスをするんだぁ、と何度か思ったことがある。

「祈って欲しいです。最近、休みが足りなくて…」
ふうううん、そういう祈りの課題かあ。

この国は今、景気がいい。豪ドルは円高といえども、USドルよりも高くなっているし(おかげで物価高、コーラが3ドル、日本の留学生の生活は厳しい)、地下資源は大陸内に豊富に詰まっているから、先行きの見通しも明るそうだし…。何だかバブル。(神学生もiPad2持っているし…妬みか?)

でも、だからと言って「経済大国になるぞー」というがっつき感は全くない。

平日でも工事のために平気で電車が停まる。
「えー、工事は夜中じゃないの?」と思ったとしても、
「そりゃ工事する人にも家族と過ごさないといけないし、休みは必要だよね。」
という感じで、誰も怒ったりしない。(ように見える。)

ホリデー出勤すると、会社は必ずホリデー出勤手当を多めに出さないといけない。「本来は休む日なんだから」
イースターの時なんか、「なんでこんな日に私が働かないといけないの?」オーラをガンガンに出して明らかに不機嫌をこちらにぶつけてくる従業員がお店にいても、
「そりゃぁ、大変だよね。休めないのはかわいそうだよね。」
と、みんなが分かり合っている。(ようにボクには見える)


高品質な生活をめざすよりも、ゆったりと生きる休みの充実の方が、価値が高い。
「品質が悪いぐらい、我慢すりゃいいじゃない。でも休みが取れないのは、我慢しちゃいけないわよ。」
「経済大国になるよりも、家族と過ごすことのほうが大事でしょ。」
「いっぱい働いたんだから、思いっきり休むぞー。」

と、みんなが一斉にホリデーに出かける。

おかげで街の機能が止まろうとも、会社がうまく回らないとしても、
「無理をして、ものわかりよく会社のいいなりになってたまるか!豊かな人生はきちんと休んだところにあるんだ!」
「私がいなくても会社は回るけど、家族には私がいないとダメでしょ。」
とそうやって、胸を張って、みんなが休んでいる。


牧師もそうだ。
「はあああ、早くホリデーに行きたい。」と説教が終わると飛び出すように家族と1週間どこかに姿を消す。
それも年に2回は。


人生で何が本当の価値なのか。
本当の強さとはなんなのか?

強い国になることなのか。

最も大切なもののために、大切な人と時間を過ごすために、神に造られた自分を大切にするために、
神様との時間を選びとるために、

休みを勝ち取れる強い人になることなのか。


オーストラリアで出会った心地良いカルチャーショック。

ファン・ルーラーの本当

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オーストラリアの朝、PCを立ち上げてスカイプがONになっていることを見つけると、思わずコンタクトしたくなる人がいる。向こうは真夜中だというのにも関わらず…。


I先生である。現在、オランダに留学中。
神戸改革派神学校時代の先輩であり、卒業後、神学校の開拓教会の牧師をしつつ、幾つかの神学校の授業を担当し、現在、オランダに留学し、戦中戦後のオランダ神学界を長年の間牽引してきたノールドマンスの神学を研究し、間違いなく今後の日本の神学界を背負っていく人物である。


「あのさー、ファンルーラーって実際は日曜日にサッカーを観に行ったりはしなかったみたいだよ。」


「えっ…」


そう、以前書いた「ラグビー、ラグビー、ラグビー」のブログで、土曜の夜にラグビーの試合を観に行った自分をまるで神学的にも正当化するみたいに、ファン・ルーラーを引用したのに…。


「こっちの新聞に、ファン・ルーラーの息子が『実際は父親はそんなことはしていなかった』って、答えていたしね。」
へええ、自分で行っていたと書いているのに、これもファン・ルーラー流の神学的テーゼなのか?


「でも、日曜日の夕拝までの時間に、人を招いて、自宅でビリヤードをするのが好きだったそうだよ。」
やっぱり、そういう「喜び」を満喫することには実際的に生きていた人なんだなあ…。



その国に住んでみないと、やはり分からない幾つもの情報。


そしてこの後、先学期、悶々と国教会の背景で学んでいることで浮かんでくる幾つかの疑問や、考え続けてきたことについて相談する。さらにオランダの国民教会についていろいろと尋ねると、実に明確に、クリアに、整理されていく。


I先生と話すと、こちらが冷静になっていく。
対話の中で整理されることが起こり、自分が神学的に落ち着いていく。

こういうタイプの人は、重要だなあと思う。

もちろん話すと「燃える!!」という人も大好きなんだけど、話すと「前のめり」になっている自分に気が付き、「空回っている」自分を自覚できる存在というのは、大切だなあと思う。
そしてこういう人が神学の教師でいてくれると、本当にいい。
もちろんI先生には、I先生の燃え方がある。
ただ話し終えた後の余韻が、他の人とは違う余韻を与えてくれる人なのだ。


気がつくと3時間近く。
こちらのわがままに付き合ってもらい、オランダはもう明け方。「明るくなってきたなあ…」

南半球と北半球を越えて、させてもらえる神学的対話。


「よし、図書館に行こう!」

この日の勉強ははかどりそうだ。


学生主体とは、主事の仕事とは何か?

アンドリューリードと

現在、200数十名のスタッフ集団を抱えるAFES。
しかしほんの20年前は、フルタイムのスタッフが8名しかいない団体だった。
一体、この20年間のうちにこの団体に何が起こったのか?というのを知ることが、今回の留学中の一つの大きな目的。

この8名のスタッフが、オーストラリア中の大学を旅をして回り(事実、車で3日かかることもざらのこの大陸)、あるスタッフは疲弊し、学生たちの側には主事はいつもおらず、AFESは魅力的な団体として学生たちの目に映ることはなく、支援者や教会からも「サポートしたい」と思える団体ではなかった…。

この状況を「Change or Kill」と考えたのが2代前の総主事、Andrew Reidである。
現在、AFESの理事の一人であり、シニアスタッフカンファレンス中に開催される理事会(別部屋)に参加するために、登場。

そして幸いなことに2時間ほどのインタビューに快く応じてくれた。


彼の最初の改革は、主事の働き方について。

主事たちは多くの大学に飛び回るのではなく、ある焦点を絞って、じっくり、ゆっくりと学生たちと時間を過ごし、学生達に必要な聖書的、神学的な訓練を施すこと。
そして人格的な時間を1to1で過ごすこと。

それまでAFESの主事は、学生の側にいて幾つかのアドバイスをして、バイブルスタディーに参加して、一緒に祈り合うことに過ぎなかったと彼は言う。それは、まるで学生の世代が大好きな、単なるお世話係のような…。
そして、そのように関わることが、「学生の主体性」を育てることだと考えてきた。

しかしそのような働き方こそが、教会や初期のサポーターからの支援が下がり続ける原因ともなったとも彼は言う。

そこで彼は、主事の働きを、学生の信仰生活に聖書的の基盤を作る「学生訓練」に特化する働きへと焦点を絞ることへと主事会に促した。

それまでは主事がメッセージをするかどうかも学生が決めていたことから、「学生訓練」分野は、誰よりも学生を愛し、祈っている主事たちの判断を尊重し、霊的な訓練を委ねることへと学生達と話しあい、変更をしていった。例えば、学内やブロックではレギュラーの聖書講解(バイブルトーク、バイブルティーチ)を持つことなどへと。
しかしその他の実際的な事柄は、学生達の主体性に委ねられ続ける。

この方針転換を、学生の多くは喜び、受け入れた。
けれどもある卒業生にとっては、「それがAFESの学生主体か?」と反対する声があがったそう。

しかし彼ら主事たちと学生達は、地道に、そして誠実に継続することを重ねていった結果、学生達は主事のバイブルトークを聞くことを楽しみに、そしてそのチャレンジから明確な成長と変化を遂げるようになった。

そしてAFESに学生達が集まるようになり、
「あんな風に主事になりたい」と願う卒業生が起こされ、
ある者はApprennticeになりたいと願い、
ある者は神学校卒業後もAFESに戻りたいと願うような循環が生まれたそうである。


ここで考えさせられる大きなポイントは、「主体的な学生」とは何を意味するのか?ということである。
そして「KGKの学生主体とはなにか?」ということ。


かつて主体的な学生の姿は、特に過去の「学生自治」が叫ばれた学生運動の時代には、日本でもおおいに見られたと思う。
その時代と比べて、今日の学生に「主体的ではない」ということは果たして正しいことだろうか?


しかしKGKの掲げる学生主体というスピリットは、「学生自治」や、「学生主権」とは違う。

KGKがいう「学生主体」とは、「学生達の主体的な神への応答」のことだ。

神の似姿に形造られ、「生めよ、増えよ」と語られた神の言葉に「応答すべき」存在として造られた人間存在は、主体的に神に応答する人格として創造された。

この神の造られた人間の属性こそ、神ご自身が「主体的」な方であることに基づいている。
それゆえ、人間も「主体的」な存在なのである。

そして、この「主体性」の中心は、神への人格的な応答であり、服従であり、献身であり、悔い改めである。
罪の中にあった時「やりたいようにやる」ことから、神に応答することが「キリストから与えられた自由」であることを自覚し、喜んで主体的に自分をささげていく。
神と人とを愛することに自らの「自由」を用いる自由なる人間の姿。
自由なる学生の姿。

KGKの「学生主体」とは、神に与えられた自由なる人間(学生)の応答、学生たちのキリストへの服従、献身のことを指す。

そして学生達の躍動感あふれる時期に、主体的に生きている信仰者達との人格的な交わりを通し、明確な聖書の指針と聖書の神学的な基盤を与えられることによって、その後の人生においても、与えられた「自由なる新しさ」を神に用いることが「喜び」となっていく基礎が築かれ、教会人としての主体的な信仰、卒業生主体、主体的なキリスト者の人生を生きていくこととなる。

そしてこの学生の主体的な信仰が育てられるために、主事は学生の側に位置している。

教会から、卒業生から学生の側に送り出された者として。


Andrew Reidとの2時間半は、主事としての「自らの応答と献身」を激しく求められる時間となった。

自らの主事としての「主体的な応答と献身」とは、どう生き、学び続け、語り続けることなのか、

と突きつけられる熱い2時間.

新主事達のブログが始動しています!

今年度新しく入ってくれた主事達のブログです。
彼らの活躍と学生達の様子がよくわかります。学生伝道の働きのために、続けてお祈りください。


老松主事のブログ(関西地区)
朝のうちにあなたの種を蒔け

小平主事のブログ(関東地区)
singing I go

塚本主事のブログ(関東地区)
KGK塚本良樹主事のブログ


霊的な時間

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前述のシニアスタッフカンファレンスで、11年以上の主事達の分科会に参加。

そこで話されたことは、「情熱の変化と働き方の変化」について。

自分が情熱を覚えていた出来事が変わっていく時やあるいは全体の中で求められる働き方が変化していく時に、自分が握りしめていたものを如何に手放し、そして自分の働き方を柔軟に対応していくことが出来るかについてが話される。

印象的だったのは、レンブラントの絵が紹介された時。

レンブラントがエマオの途上のキリストを描いた2枚の絵が紹介され、キリストの描き方が彼の人生のステップに於いて変わっていることが話された。

キリストの教え
1枚目は、キリストの表情が描かれず、キリストの話を聞く弟子たちの驚く様子が描かれている。神の言葉のインパクトを弟子たちに与えるキリストの姿。しかしその顔は光を浴び、表情を読み取ることは出来ない。

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しかし2枚目は、弟子たちの隣に座り、神の言葉を優しく解き明かすキリスト。弟子たちの顔も驚きと共に喜びに満ちた姿でキリストの言葉に耳を傾ける。そしてキリストの顔は柔和で、寛容で、優しく、はかなげな寂しさも含み込む。

この2枚の絵が描かれる間に、レンブラントには妻を亡くし、子どもを亡くし、財産を失う経験をした。

多くのものを失う経験が、レンブラントがキリストを知り、キリストの表情を描く事が出来るようにさせてきた。
年を取り若い主事達のように働けなくなることも、かつては情熱を持って出来たことが出来なくなることも、回りの変化により自分のやりたい事を手放すようにされることも、キリストを知る成熟の道のりの中にあることだと、エマオの途上を歩くキリストとの道のりなのだと。


この分科会終了後、講師となったシニアのシニアの主事に「もう少し話したいんだけど、いいだろうか?」と聞いた。

「いいよ。」と彼は応えてくれて、彼の部屋に個人的に招き入れてくれた。

そして自分の中にある長い間抱えてきて、ほとんど誰にも話せなかった自分のストーリーを彼に聞いてもらった。
それは自分の人格のゆがみのある場所であったし、何かが損なわれ続けてきた場所であった。

たどたどと話しながら、気がつくと涙がこぼれていてた。


すると彼はそれに気づき、僕の肩をしっかりと抱いて、今度は彼自身のストーリーをも分かち合ってくれた。

そこにも彼の「失う」経験が存在していた。
そしてその経験には、今も目に見えて何かしらの良い解決があった訳でもない。
人間的な目から見ると何ら状況は変わった訳ではないし、その「失った」ことは今後も彼の人生で「あり続ける」ものであり、「失い続ける」ものでもある。



しかし「失う」こと、「変化する」こと、「痛み続ける」ことが、キリストを知ることに道を開いてくれたと、
彼は、ボクの肩を抱き、そう語ってくれた。

そして彼は僕のために祈ってくれた。



そして僕も少し嗚咽しながらも、僕は僕の祈りをなした。



きっとこれからも抱え続けるだろう痛みを、きちんと痛もうと覚悟が生まれた祈りの時。



失うことや手放すことが恐れではない人生を語ってくれるシニア。

「シニアになる」ことの豊かさと希望を覚えた、霊的な、霊的な、夜。



シニアスタッフカンファレンス

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ハイテンションなApprennticeカンファレンスが終わると、今度はシニアスタッフカンファレンスが開始。

シニアスタッフとは神学校を卒業し、神学的なトレーニングを学生たちとApprennticeに与える主事達。
もちろん年齢を含めて落ち着いている人たち。
そして少しほっとする。

シニアスタッフトレーニングのプログラムドラフト


そして分かち合われる内容も、スタッフチームを如何に建て上げるか、支援者や支援教会との関係づくり、新しいミニストリーを開始することへの全国的なチャレンジがなされる。KGKの全国主事会と構成と構想は同じ。

この人達も全員で100名を超える。
そして年齢も20代後半(Apprennticeや神学校を終えている)から、60代目前の年齢層。
そして毎朝、シニア主事のシニアたちが聖書講解。これが非常に優れた説教。

このカンファレンスで非常に感銘を受けたのは、シニアのシニア達の存在。

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プログラムの中で、1-3年目、4-6年目、7-10年目、11年以上に別れたプログラムがあり、11年以上の主事たちが20数名。そして40代中盤の総主事よりも年上の主事が13名。
一見、見た目はおじいちゃんか?と思えるような彼らがカンファレンス全体の空気感を形成している。
深刻な話も軽快なジョークで雰囲気を柔らかくし、祈りの時になると若い主事達の前で誰よりも先に膝まづき、敬虔に祈る。そして担当する聖書講解では、「これが講解説教だよ。」と言わんばかりの凄まじい説教を若手に見せつける。
「あああ、これだけの説教ができるから、この年でも学生伝道が出来るんだなあ。」と思わさせる実力の持ち主たち。しかし一旦、講壇から降りると、またもやチャーミングでジョークばかり言うおじいちゃん?へと戻って行く彼ら。

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女性主事たちにも同じように年配のシニア主事がいる。
結婚もして、子どももいて、夫にはとても理解があり、若い主事たちを励ます存在。
若い独身の男性主事に「女性主事との働き方」をレクチャーし、女性の賜物を生かせ、男女が互いに尊敬しあいながら働ける職場になるように潤滑油になるシニアのシニア女性主事。

彼らの側に、多くの若いシニア主事たちが相談に訪れる。


AFESの団体の成熟ぶりを見た瞬間。

学生伝道は、年が若ければいいものではない。


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アプレンティススタッフカンファレンス

アプレンティスカンファ


前学期の合間にスタッフカンファレンスに参加。
オーストラリア全国からAFESのスタッフが一同に集まってくる。
前半は、Apprenticeと呼ばれる神学校に入る前の主事達のカンファレンス。その数100数十名。20代前半の彼らは、学生たちのバイブルスタディーに寄り添って、1to1で学生リーダー達と個人的な時間を過ごし、あるいはノンクリスチャン学生に個人伝道をし、クリスチャンライフスタイルのモデルを学生たちに見せる存在。

そんな彼らと一緒に時間を過ごしながら、祈りを共にしながら、聖書を分かち合いながら、学生たちのことを祈りながら、ひたすら感じていたことは、

「ああああ、懐かしいなあ。」という思い。

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1997年にKGK主事会に入り、右も左もわからないまま、ただテンションの高さとフィーリングの近さだけを武器に学生たちの側に飛び込み、ひたすら1to1を繰り返し、何人もの男子学生達が当時の四畳半の我が家に泊まりこみ、夜を徹して話し込み、一緒に泣き、一緒に笑い、食事をし、聖書を読み続けたあの頃…。

自分の神学的知識の無さにひたすら落ち込み、それでも回ってくる月に一度の夕拝の説教、ブロック祈祷会でのメッセージ、さらには学生たちから依頼される伝道集会のメッセージ。

主事になって3ヶ月後、D大学の学園祭で「神、罪、救いで3回の伝道メッセージをしてもらえますか?」という依頼があった。こちらは大学を卒業したばかり。「オレが聞きたいわ!」と思いながらも、学生たちにとっては、自分の姿は主事の一人。「う、うん。」と返事をしながら、必死に準備をしたあのメッセージ。(今、読み返すと恥ずかしくてしょうがない。でも必死にやったんだよなー…)

何とかしようと、出席教会の牧師の説教のテープ起こしをし、「説教とは何が語られていることなのか、なぜここで自分の心は激しく打たれたのか?」その説教も構造を解き明かそうと、何本ものテープを文字に起こし、その説教の凄みを理解しようと努めた。
さらには、なんとか準備した夕拝の説教が終わると牧師のもとへ行き、「今日の説教はどうでしたか?どこをどう直せばいいですか?」と毎回毎回聞きに行き、その教えられたポイントを修正し、今度はまた学生たちの前で話してみることを繰り返した。

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あの頃のがむしゃらな自分と同じ彼らが、ここに100数十人集まっている。
ここにいる彼らのほとんどが、2年間のApprenniceを終えると、神学校に入る。そしてこの2年間で感じてきた神学の学びの憂え渇きを癒すかのように、必死に勉強をする。
そしてある者は牧師になり、ある者は学生伝道の現場に、シニアスタッフとなって帰ってくる。
今度は学生とApprennticeを神学的なトレーニングをする立場となって…。

彼らが毎年、毎年、学生伝道の現場で訓練を受け、神学校へ行き、オーストラリア全土へ伝道者として遣わされていく。
この伝道者育成のものすごい循環。

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自分にとっての最初のあの「叩き上げ」としか言いようの無い3年間があったからこそ、もう一度学生伝道の現場に戻ってこようと思えた。
そして今、KGK主事会に入ってくる有望な新人の主事達と一緒に学び、共に考え、共に祈りながら、主が送ってくださっているKGKの学生たちに、教会に、神の国に仕えていきたいと思いが新たにされたApprennticeカンファレンス。

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