KGK大嶋重徳主事の巡回日記

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変わらない牧師

前回ブログの続き。

かつて浦和で奉仕していた時とは場所も変わった教会堂。
その会堂を案内してもらいながら、デザインの一つ一つの意味をお聞きし、10数年前に会堂のアイデアをお聞きしていた頃の先生の神学思想は変わらない。

「どうぞ」と座ったソファは、あの牧師室にあったソファ。
ここで20代前半、牧師の本棚の前に座り込み、片っ端から本を手に取り、書き記されている赤線やメモを読みながら若き日の坂野先生との対話し続けた。
その時のソファ。


そして夕暮れが近づいた頃、「牧師をしながら仕事の内容を変える必要を感じたことはありますか?」
とお聞きした。


いつものように目をつぶり、しばらくの沈黙のあと、


「ないですね。
ずっと同じことをしていました。

一人一人のことをお祈りすること、

訪問し、お見舞いすること。

聖書の学びを必要とされる方と、1対1で学びをすること。

聖書の説教ですね。

変化が叫ばれる時にこそ、同じことをし続けていました。

この他のことに時間が奪われそうになる時にこそ、このことが出来なくなることを避けてきました。



この同じことを誠実に続けてさえいれば、牧師はきちんとやれるのです。」



そして言葉は続く。



「大嶋さんは今も、そしてきっとこれからも、忙しさは増え続けるでしょう。

組織的になさねばならないことも、周囲から必要とされることも、
果たさなけれなならない責任も、
増えていきます。

ですがやがて、出来る事は限られていきます。
体力は衰えます。


だからこそ、同じことがし続ける力を失ってはなりません。

言葉が荒れてこないためにも、失ってはならない感性が必要です。



私は少し心配していますよ。」



恩師の変わらない笑顔を眼差し。


長い時間、神から人を牧することを委ねられてきたの言葉。


牧される喜びを味わった浦和での3年間の宝。





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沖縄クリスマス!

今夜は沖縄KGKクリスマスが、那覇バプテスト教会で18:00からあります。学生のみんなが友だちに声をかけてのクリスマス、沢山来てくれますように。卒業生の皆さん、是非美味しい差し入れを期待しています(笑)。さあ張り切ってメッセージに行きます!

恩師に会いに行く

人生の岐路に立つ度に、迷いが生じた時に、行き詰まりを覚えた時に、お会いしたいと思う人がいる。
ここで会わないと自分はズレる、と思う人。

浦和福音自由教会の坂野慧吉牧師。


ここで過ごした3年間、毎週の礼拝説教によって変えられていく自分を経験し続けた。
礼拝後、すぐに立ち上がれないくらい御言葉にとらえられ続けた。
説教が神からの出来事なのだということを、身体で知った経験。

15年前神学校にまだ行っていない頃、KGKの主事として夕拝説教の奉仕が始まり、学生から依頼される説教奉仕がある。
「説教とは何か?」と考え続け、そして憧れた坂の先生の説教テープを何度も聞き直し、文字に起こした。
そして「なぜ自分はこれほど説教で神からの語りかけを受けたのか?」と、「どこでそれは起こったのか?」と、問い続け、考え続け、坂野先生に「先生のこの説教、自分なりにアレンジして学生たちの前でやっていいですか?」と厚かましいお願いもして必死に苦闘し続けた3年間。
憧れ、真似をし続けた日々。

夕拝説教の後は必ず、「先生、今日の説教にコメント頂けますか?」と牧師室に通い詰めた。
「大嶋さん、説教は交わりだと知っていますか?説教中の聴衆の無言の応答が聞こえていますか?」
至言に出会えた日々。

そしてそれらの交わりから与えられた視座。
三位一体論的に考える。
礼拝共同体と「交わり」を考える。
キリスト者の如何に生きるかを、生かしめるのは「霊性」である。

これらが、その後の自分の人生の考える基点となった。



今日、久しぶりにお会いをしに行った。
昼食もご一緒して、5時間半…。


「お考えになっていることを初めにどうぞ。」


恩師の目をつぶって話しを聞いて下さる姿は今も変わらない。
全てがばれているなあと思う眼差しも変わらない。
そして一気に本質に入る問いが投げかけれることも変わらない。


自分の思考が、あり様が、感性が、健やかではない場所が探り当てられる。
それも自分でそこに気がつくように、と静かな時間の中で辿り着いていく。


少し夕暮れが始まる頃、両手を握って「またいつでもどうぞ」と言って下さる。


いろんなものを全部洗濯したような感覚。

あのように年を重ねることが出来たらと、恩師に頂いた貴重な時間。



「急いで考えずに、ゆっくりと神様のお導きをお待ちになったらどうですか。」という言葉を噛み締めながら、じっくりとゆっくりと30代の最後を歩こうと思った。


夕暮れを歩くと北浦和公園の枯葉がさくさくと音を立てていた。






十戒第8戎「盗んではならない」

お声をかけて頂いたので、思い切って十戒8戎の原稿をUPしてみました。長いですが、御覧くださると感謝です。


十戒8『裕福になることと搾取に生きるということ』

「盗んではならない。」

はじめのはじめに
皆さん、こんばんは。
この学びがスタートしたのは、バルメン宣言の学びからでした。その始まりは2008EAEC日本開催です。KGKが1993EARC台湾で、敗戦50年を迎える折に戦責告白を行い、しかしながらその言葉の意味を分からずになした告白が、韓国の兄弟姉妹の悲しみを生み出しました。しかしKGKは各地区で学びを始め、NCでも何度も取り上げ、それから15年が経った時にあのEARCを日本で開催をすることとなったのです。その際にドイツで信仰告白の戦いを為したバルメン宣言を学びました。「なぜドイツでは告白教会が戦い得たのに、日本の教会は戦うことが出来なかったのか。」ということが問いの中心にありました。そこで学んだことの一つは「信仰告白の事態」status confession という言葉でした。この言葉は主イエスをキリストと告白することが脅かされる事態のことを指します。教会は聖霊によって緊張関係を強いられるような事態に御言葉への信頼を失わず、「イエスは主である」という言葉を告白し続けてきました。しかし日本の教会の戦前、戦中、そして戦後にいたっても殆どの場合このことに自覚的ではありませんでした。
今回の衆院選挙は、まさにこの「信仰告白の事態」が始まっていると言うべきです。私たちは過去の歴史を振り返る時「なぜあの時に、あの日本の教会は気づかなったんだろう…」という問いを持ちます。しかしこの同じ問いが私たちの子ども、孫の世代から「おじいちゃんはなぜ、あの時に気が付かなかったの?あれほどのことが回りで叫ばれていたにもかかわらず。」と問われる日が迫っています。それがどういう意味なのかを今日ここにいる皆さんと考え、祈りを共にし、そして「イエスは主である」という告白を共にしたいと思うのです。
私自身原発のことを第10戒「欲しがってはならない」で考えようと思っていました。しかしこのタイミングでの国政選挙となり、事態は急を要する中で、むしろ事柄は「殺してはならない」で考えるべき問題であったのではないかと反省を強くしています。また選挙に入り各立場の思惑思想が目に見えて明らかになった時、この国の行方を決める世界観の対決の真ん中に立たされている思いが致します。ここにキリスト者として、現代キリスト者学生倫理試論と掲げてやっている学びで口を閉じるわけにはいかないというのが今の思いです。
しかし今日ここに集って、小さくても一つの祈りをなしていることは、この時代に一つの告白をなす事実です。そして今夜、「私は力は小さかったけれども、この時に祈りを持って必死に戦った。」とどんなに小さくても歴史に刻んでおきたいと思うのです。これからの日本の教会の歴史のためにも。

はじめに
さて最初に力が入ってしまいましたが、今夜の学びは改めて「盗んではならない」です。この戒めが何を私たちに教えているのでしょうか。
本題に入る前に、この戒めは皆さんにとってどんな意味を持ってきたでしょうか。私にとっては、こどものころから平気で万引きする友人たちの側で、「なんでお前はせえへんの?」と言われる度に、鳴り響いていた戒めでした。またはキセル乗車とは最近は言わないかもしれませんが、それにもガードレールの様な役割を果たしてくれました。この戒めほどシンプルに、何を為すべきではないのかを教えてくれる戒めはないでしょう。第8戒はその言葉通り、盗んではならないのであって、どういい加減に取り扱おうとしてもそこに付け加えることもないのです。
しかしここで問題にしようとしているのは「盗んではならない」という戒めが光を当てている範囲、射程です。つまり「盗まなければそれでいいのか。」ということです。また私たちの通常の行為のなかでどれだけ無意識のうちに、気づかずに「盗む」という行為をしているのかということに気付きを与えられたいと思うのです。そして「盗まない」「盗ませない」社会、文化形成のためには、この戒めがどのような生き方へと導こうとしているのかを考え、私たちの告白をしたいと思います。

所有の問題
さて「盗んではならない」の前提となっているのは、所有の問題です。今日ここから入っていこうと思います。
ここで考えようとしているのは、つまり「キリスト者は、この世界を一体誰のものだと考えているのか」という問いです。キリスト者は「私のものだ」とは言いません。あるいは人民が形成する国家のものだとも言いません。私が「私のものだ」と考えているものは、世界を創造された「神が所有されている」と考えるのです。「家族、みんなものだからね」と言うことも、キリスト者としては、「神様のものだからね」ということになります。
聖書は「所有」それ自体を禁じてはいません。放蕩息子の兄に語る父親のように「私のものは全てお前のものだ」と神は語り、あるいは創造の最初に「生めよ、増えよ、地を満たせ。地を従えよ。」「地を耕せ」と語られるように、あるいは「園のどの木からも取って食べて良い。」と語られているように、あるいは5タラント、2タラントを増やしたしもべの例え話のように、ここには神に委ねられ、神から委託されたものを自由に手にし、管理し、そして食し、広げ、財産を用いそれを生かし、経済活動を展開し、働き正当な報酬を得ることを、聖書は禁じてはいないどころか、それを神の国の建設の使命として励ましています。ここには所有する自由があり、管理する使命があり、自由によき創造の被造物を食することが、神との交わりの中で与えられているのです。
そうです。大切なことは、神との交わりの中で所有することなのです。人の所有には「神を神とする」という第1戎の約束のもとに行うことが前提となっています。このそもそも所有の問題に立ち返るならば、私たちの所有しているものは一つもないと言えるし、同時に全てを所有していると言えるのです。
献金の問題もここから考えるとよく分かることです。マラキ書は「あなたがたは私のものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」と神はおっしゃるのです。そこには神様に委ねられたものを感謝して、与えられたものの1/10は神様にささげる。ここには9/10は自分のもので、1/10だけは神様のものという考えではなく、与えられた生活の全てが神様のものであり、その告白が1/10の献金となって告白するということです。荒野でマナが降ってきた出来事で、翌日にまでマナを取っておくと腐ってしまうことは、所有の禁止ではなく、神の仰せになる約束の言葉を忠実に生きるという約束の問題でした。
ここには「神との交わりに生きる」ことが第一のことです。「所有をしてはいけない」のではなく、神との交わりによって自らの所有しているものを管理し、生かし、用いるのです。ボンヘッファーは「私達の倫理の出発点は、神から委託されているという事実から始まる」と言ったように、「如何に生きるか」という倫理は、神に委託されている事実から始まるのであって、「これは私のもの」というところからは始まらないのです。

 その意味では、第8戒を告白する際に「自分の人生もまた自分のものではない」ということを告白しなければなりません。自分の人生も、自分の時間も、自分の健康もまた神の所有にあるのです。そう考えるならば、私たちは自分に与えられた神の時間を、自分自身で盗んでいないかということを考える必要があります。私はこの十戒の学びの原稿を書くのも本当に苦しむわけです。その時に「怠けたい」という思いに捕らえられます。しかしそれは与えられた神様の時間を盗んでいる。時間管理もまた第8戎の射程に入ってくるのです。
 あるいは逆に忙しすぎるというのも、神様に与えられた時間を盗んでいることとなります。自分のこの時間は自分のものだと予定を次々に入れていくことは、自分を追い詰め、眠る時間を奪い、健康を失い、大切な人との時間を損ない続けることとなります。あるいは第8戎を前にする時、わたしの子どもが父親と過ごすべき時間を、わたしは息子から盗んではいないだろうかということを深く問われなければならないのです。妻が夫と過ごすべき与えられた時間を、私は妻から盗む権利を有してはいないのです。2週間前に娘が読んでいた本は奇しくも「モモ」というミハエル・エンデの書いた名作です。ここには灰色の男たちが時間泥棒をする。この男たちに時間を盗まれていくことに、気が付かず大人たちはやがて子どもたちの時間も奪われていくというこの世界に対する辛辣なメッセージを放っているのです。この「所有」に対する姿勢はこの後、「盗まない」社会形成をなしていくための大きな前提となってきます。

誘拐をし、奴隷にしてはならない 
さて十戒研究が進められていくなかで、第八戎「盗んではならない」は、十戒が語られたこの当時のイスラエル共同体にとって具体的に意味するものは、「誘拐をしてはならない。」ということであっただろうと言われています。
すなわち「誘拐の禁止」を言っているのです。このことは創世記のヨセフ物語に出てくるように、ヨセフを妬んだ兄達からヨセフは奴隷として売り飛ばされます。このような出来事が頻繁に起こったイスラエル共同体に、またエジプトの地で奴隷の抑圧を受けた経験を持つ彼らにとって、第八戎は2度とそのようなことがあってはならないという強い禁止が叫ばれているのです。この解釈は出エジプト21:16「人をさらった者は…」ということで指摘されており、また第10戒「欲しがってはならない」との明確な違いとしても根拠があります。もちろん旧約聖書において、奴隷制の普遍的な禁止は記されていません。しかし、ガラテヤ5:1「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と語られるように、キリストにある自由の約束と成就にこの戒めはまっすぐに道筋を開いています。

この「誘拐して奴隷にする」ということが「盗んではならない」ということが意味することであるならば、ここで問われているのは、人の人生を思い通りに支配し、自由を強奪することの禁止と言えます。誰かの人生を誘拐し、自分の所有にしてしまうことへの禁止です。人の自由を盗むことの禁止とも言えるでしょう。
そうである時にカルト的なマインドコントロールもまた第八戒の語る「禁止事項」に加わってきます。また親が子どもの人生を思い通りにコントロールし、虐待を加えることも、あるいはDVもまたこの8戎の禁止事項です。さらに教会形成において牧師が信徒を、信徒が牧師を思い通りにしようとコントロールすることもこの禁止に入ります。教会は神のものであり、誰かの奴隷状態に置かれることがあってはなりません。
私がある時、牧師に私を苦しめきた罪の告白を聞いてもらいました。その時にその牧師は、「私に話したからといって、私がどう思うだろうかという思いに支配されてはいけません。私は守秘義務を守りますし、私はこのことを心に留めて祈ることはあったとしても、これから先大嶋さんとの間で私からは話題にすることはありません。」とおっしゃいました。これはあの罪の告白が、神との間でなされたものなのだということを強く自覚させられる出来事であることと同時に、その牧師の「人を支配し、支配される関係」への懸念の強い自覚を思わされ、それは私の主事としての姿勢を作ってくれました。
このような個人的な、内的なことだけではなく、世界には「誘拐し、奴隷とされ」盗まれている現実が多々あります。カカオ農園、コーヒー農園で働かされている子どもたちはさらわれて来た子どもたちであると言われ、そこで取れるチョコレート、コーヒーを飲むことはその誘拐に加担しているとフェアトレードのコーヒーやチョコレートが訴えています。独裁国家の政治もまた自由の強奪です。

日本における「誘拐され、奴隷にされている。」現実
 では日本ではどうか、「誘拐し、奴隷にする」ということで、私たちに直ちに頭に思い浮かぶことは「自由を奪われ、住んでいる場所を奪われた」あの福島で起こった原発事故です。避難を余儀なくされ、不当に住む場所を奪われてしまった事故です。
30キロ以上の避難区域に指定されていない場所でも、子どもたちが外で遊べず、除染後もすぐに放射線の数値は上がります。この低線量被曝、あるいは食物による内部被曝がチェルノブイリで明らかになったように、4,5年後、あるいはそれから先にどのような形で健康被害が出るかの恐怖がここにあります。福島で健康が奪われ、住む場所が奪われています。
さらに原発従事者たちの過酷な労働環境です。現在も被曝をさけられずいのちがけで収束作業に当たっておられる方々おられることを祈りに覚える必要があります。しかしこのような事態が起こる以前から、ウラン採掘、燃料加工、原発の維持管理、廃炉作業に携わってこられた方々は、日雇いの正規労働ではない方々が十分な説明を受けることなく働いておられます。しかも1日被曝許容量を超えるとブザーが鳴り始めるために、そこに鉛のカバーを掛けさせられたり、線量計を外させられたりしています。ここには電力会社ではなく暴力団関係者が関わっていて、賃金の搾取も起こっているのです。ウラン採掘に関わっているのも、オーストラリアではアボリジニなどの貧しい生活をしている人たちがその採掘にあたっています。
さらに問題は、なぜ福島、宮城、青森、福井などの都会とは違う50の地域に原発が建てられているのかという問題です。送電するコストを考えても、本当に安全なものであれば都会に造ればいい訳です。しかし原発のはらむ危険性を考える時、東京ではつくらせない訳です。払うべき犠牲は小さくと、都市に地方を従属させる構造がここにはある訳です。
 福島大財政学教授の清水修一教授は、福島は戦前から、東京の電力、食物、労働力を負い続ける装置として利用されてきたと指摘します。戦前にもダムを作り水力発電が70以上ありそれを東京に送り、過疎化が一層進んでいきました。
また1960年初めて茨城県東海村に原発が出来た年、東京オリンピックがありました。そこでは高度成長期に労働力として使い捨てられたのが東北からで出稼ぎ労働者です。奥田英朗が描く「オリンピックの身代金」という小説には、不当な労働による過労死がもみ消され、貧しい東北を踏み台に東京の繁栄がつくられたことを描いています。
「東北学」を提唱する民俗学者で、東日本震災復興構想会議のメンバーである赤坂憲雄さんは、「戦前、東北は『男は兵隊、女は女郎、百姓は米を貢ぎ物』として差し出してきた。いわば、国内の植民地の構図があった。現在はさすがに違うだろうと思っていましたが、震災でいくらか認識を改めました。食糧もそうですし、電力は典型的です。東京で使う電力を東北が供給している。巨大な迷惑施設と引き換えに巨額の補助金が落ちる。今まで意識してこなかった構造が、震災を契機にはっきりと浮かび上がりました。きわめて植民地的な状況です。中心と周縁、中央と地方という構図が依然として東北を覆い尽くしているのです。」
これは沖縄の現状も同じ事です。沖縄戦では、首都決戦を前にして時間稼ぎのための捨て石とさせられました。アメリカ軍上陸により、明らかに敗戦確定にも関わらず当時の牛島中将「最後一人まで降伏してはならない」と言い残し自決したことにより、沖縄戦争はいたずらに長引き、3万数千人の民間人の命が奪われ、18万人の日本人の命が失われました。守るべきものは、沖縄の人よりも東京なのであり、天皇陛下のおられる場所であったのです。
さらに戦後もアメリカ軍の用地接収が起こり、土地を奪われ、全国70%を超える米軍基地を沖縄県が負担させられ、アメリカ軍兵士によるレイプ、暴行がありながらも、日米地位協定を見直すことへと踏み出せず、沖縄に犠牲と負担を押し付けているのです。ここには文字通りの「誘拐」があり、自由を奪われ、支配されている状況があるのです。
「いやいや原発ができて、東北にもお金が落ちているでしょう。」「沖縄も結局、基地がなければ経済が成り立たないのでしょう。」という声が上がります。いわゆる原発交付金、基地交付金です。この声があがるのは、犠牲を敷いている現実からくる後ろめたさを回避するためです。
原発交付金は、環境調査を行うだけで年間5億円が支給され、着工すると50億円が入り、20年間で893億円の交付金と固定資産税が確保されます。しかし運転開始後10年後から徐々に金額が減らされ、20年を前にすると再び次の原発建設を誘致しないと今までの税収を確保できない仕組みとなっています。そして第一原発、第二原発と増えていくこととなるのです。
つまり「言うことを聞かないと、金を出さないぞ」と財産の所有が権力の道具となっているのです。そして一部利権者だけが優遇される構造が延々と続くのです。これらの構造は、地域経済を成立させない依存社会の形成です。東京や都市部が快適な生活を過ごすために、地方を「盗んでいる」現実がここにはあるのです。
しかし、今回の原発事故で明らかになったのは、原発交付金を手にすることのない飯舘村が全村避難となり、東日本全体にわたる放射能被害です。ここに40兆円を超える賠償額が発生しています。そしてここに私たちの税金が投入され、意図しない、願わない原発が再稼働し、そしてまたここに原発交付金が投入されるのです。

富と権力の問題 神からの委託が歪められる時
 しかしそのような原発がなぜ止まらないのでしょうか。尚、動かそうとする勢力がいるのか。実際は節電により、電力は十分に足りた現実があってもなお、あるいは自然エネルギー開発で期待される新しい科学技術の発展と、そこで生まれる新しい産業の発展が見込まれるにも関わらず、原子力発電所を継続しようとする立場、思想、世界観が存在しているのです。
 一つは、富の問題です。イエスキリストがマタイ福音書6:24で、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
 イエスキリストは神に仕えることと富(マモン)に仕えることを対比させて考えさせ、富が神となってしまうことを警告されています。お金のことを考える時、キリスト者もまた思考停止が起こります。教会もまた原発のことについては口を閉ざしてしまいます。教会に東電の人がいたらどうしようか…。
「電力が止まると、石器時代に戻るよ。」「中小企業が潰れる」とマモンを旗印に振りかざし、自由よりも経済的な圧迫を不安に思い、隣人の搾取よりも自分の今の生活の確保へと向かっていってしまいます。自分の既得権益が守られないならば、隣人の犠牲もまたしょうがないと考える。富は自分の生活を重んじて、他方を軽んじるようになります。
 リュティは十戒の説教の中で「神は第8戒で財産を守られます。…しかし神は不正な財産も守られるのでしょうか。…財産を持っている人が貧しい人たちから盗まれることから守られるだけなのでしょうか。むしろ神はこの戒めに依って無一文の人々が、財産を持っている人々から引ったくられることを守られるのであり、どちらかと言えば、こちらのほうに重きを置いておられるのではないでしょうか。」と語ります。
カパドキアのバシレイオスはある説教の中で、これは自分だけのものであるとしてよいものはないとはっきりと語り、こう言います。「あなたの家で食べられることのないパン、それは植えている人たちのものです。あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れの中にしまいこまれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中でさび付いている金銭、それは貧しい人たちのものです。」
富が失われる不安、現在の生活が奪われるのではないか、という富に仕える人間の罪性が、この原発推進に対して足を鈍らせます。ここには最初に確認した私たちの「所有」の意識が問われているのであり、所有のありかをはっきりとさせる必要があります。

原発の向こう側にある思想
 さらに原発を稼働し続けようと動きのなかに思想は、選挙を見ているとよく分かるように、改正憲法を出そうとする勢力です。石原慎太郎は、「日本は核を持ったほうがいい。徴兵制もやったらいい。」という発言をしています。ここにあるのは「強い日本」です。原発を稼働し続け、核兵器をいつでも持つことが出来る準備をして置かなければならないと考える訳です。
現在、日本にある放射性物質を長崎型原爆にするならば5000発も出来る量があります。これを維持し、抑止力にしなければならないという考えです。事実2012年6月20日の原子力基本法の一部改正では利用目的に「わが国の安全保障に資する」とはっきりと追記し、原発の軍事転用に道を開こうとしています。これは重大な問題です。
しかし実際はもし本当に日本の国が攻められ日本にある50以上の原発に爆弾が落ちると、ほぼ完全に国土は滅びる訳です。原発が50以上もあることの方がかえって危ないのです。彼らは一体何を守ろうとしているのか全くわかりません。ここにはひたすら戦争が出来る国づくりをしようと無差別大量破壊兵器を持とうするマッチョな体質があり、再び戦前、戦中の日本に戻そうとしている訳です。明日12月8日は奇しくも太平洋戦争に突入した日です。この時期に私たちはこれらの思想に立ちはだからなければなりません。
またキリスト者としてこの選挙で意識しなければならないことは、2012年4月に発表された自民党憲法改正案です。ここには戦争を出来る国造りと共に、信教の自由を奪いとろうとする姿勢があります。
自民党の改正案
第20条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない

ここの問題点は、誰が「社会的儀礼」を判断し、「習俗的行為の範囲」を定めるのかという点です。この改正の第一の目的は、岩手靖国訴訟で違憲となった天皇の靖国参拝を合憲化することです。さらにこの憲法改正によって、学校行事としての神社参拝、護国神社参拝が可能となり、国のために死んだとされる人が神となり顕彰されている施設へ修学旅行が行われ、愛国心を育てる教育への道が開かれることです。自分の子どもが「先生、私は神社参拝を信仰上の理由で出来ません。」と言うと、「いやこれは社会的儀礼であって、習俗的行為を超えていないんだよ。」とクリスチャンの教師も答えないといけない、そして子どもたちをその教師の前に立たせなければなりません。神社参拝が教育のなかで促される道を開くものなのです。
さらに憲法20条の改正は、憲法89条が改正に繋がり、
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
私学助成金を受けているミッションスクールで今は普通になされているチャペル礼拝や教室礼拝をすることが不可能になります。もし89条が自民党案のとおりに改定されてしまったら、全国のミッションスクールは、礼拝を止めて私学助成金をもらうか、私学助成金を断って礼拝を続け経営困難になるか、どちらかの選択をせまられることになります。ここに、今「信教の自由」が奪われようとしている思想、信条、世界観が私たちの前に立ちはだかっているのです。ここには「信仰告白の事態」が起こっているのです。「イエスは主である」という告白に立ちはだかろうとしている時が今、ここに来ているのです。

始めるべき悔い改めと方向転換
そして何よりも今私達の目の前にある大きな問題は、そこで起こっている出来事に目をつぶっている現状です。思考停止に陥ってしまっている自分たちの姿です。
私のことをお話したいと思いますが、正直原発問題をキリスト者の倫理的問題としてとらえることが出来るようになったのは、原発事故が起きてからもずっと後のことでした。私の眼の前にあったことは、ボランティアをどのように派遣するかであり、あの時その緊急性が求められたことは事実です。しかしやがて福島で起こった出来事が明らかになり、続々と避難される方々が起こされるのを目の当たりにしても尚、地震と津波の問題とは明らかに違うことに気が付きませんでした。同じような震災の一つのように考えていたのです。キリスト者の信仰の倫理的課題となっていなかったのです。
しかしこの気付きが与えられたのは、ボランティアをしながらも「自分たちの思い通りのボランティアを展開したい」という支配しようという都会から来るクリスチャンの姿でした。「自分たちの献金が目に見えるような形に残したい。」と、被災されバラバラになった教会の信徒の方々の声に耳を傾けることなく、新しい教会堂を勝手に立てていく働きがそこにありました。東北にある教会の牧師は、「泥まみれでボロボロになったこの場所に信徒の方々と立って、そこで手と手をとって涙を流したかった。それでももう一度この場所に教会が建てられるように祈りたかった。」とおっしゃいました。都会で過ごす自分たちの納得するスピードで、目に見えてわかりやすく行いたいという思いが、その祈りの機会を「盗んでしまって」いたのです。
私の所属する教会の牧師は青森出身ですが、ボランティアに出かける私にいつも「東北の方の言葉を聞いてください。いつも東北は都会に言葉を馬鹿にされ、田舎だと馬鹿にされ、踏み台にされてきたのです。」と言われました。そしてようやく私も気がついたのです。ここにあるのは日本全国にある地方が都会に、特に東京に搾取されている現実です。そしてその搾取の上に成り立っている構造に目をつぶってきた自分自身の現実です。
EARCで東北地区KGKの木田智子さんが、ステージで震災の被害と原発の被害を話す中で、涙を流しながら「私は福島県民として原発推進派の知事を選んでしまいました。その責任は私にあります。」と語った当事者としての言葉を忘れることはできません。私たちはこの当事者意識の欠如を悔い改め、この思考停止の状況から脱し、向きを変え、告白の声をあげなければなりません。

盗まない社会形成、文化形成
 さて向きを変え、歩み始めるために第八戎が語る「盗んではならない」と戒めるこの戒めは、どのような自由への道標を指し示しているのでしょうか。
パウロは、エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」と語ります。
ここに「盗みをしている者は…」という言葉があります。ここまでの学びを経てパウロのこの言葉は、ここにいる私たちの全てが盗みをしていた現実を認めざるを得ません。そしてパウロは「もう盗んではいけません。」と盗まない社会形成、文化形成へと促します。では盗まない社会とは何でしょうか。
 ここでパウロは3つのことを語ります。一つは「困っている人に施しをする」ことだと。盗むことの対義語は、「盗まない」ことではなく「助けること」「分け合うこと」なのです。
ハイデルベルグ信仰告白第111問:それではこの戒めで神は何を命じておられるのですか。答:私が自分に出来、またしてもよい範囲内で、私の隣人の利益を促進し、私が人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、私が誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。」
 ここでハイデルベルグ信仰告白は、第8戒で命じているのは、私が働きかけることに依って、人を助けることの出来る社会を形成しなさいということなのです。
 今まで罪の中にいた時、私たちは自分の所有を如何に増やすか、人から奪い取ってもいかに快適に暮らすかということを幸福だと考えていた、しかし今や、キリストが私たちの内側に住まわれる時、私たちはこの幸福感のパラダイムシフトが起こったのです。「受けるよりも与えるほうが幸いです。」と、隣人の利益の促進に生きることに喜びがあると知ったのです。キリストが私たちを愛して下さったことによって、分け合うことが喜びになり、ささげ、仕える側に喜びがあるのだと知ったのです。
卑近なところで言うと、電車の椅子を譲るんです。週間少年ジャンプも買うけど、御茶ノ水橋で売られているビッグイシューという雑誌を買うのです。自分を必要としている子どもと、妻と、あるいは孤独を覚えている友人と過ごす時間を選ぶのです。そして今、自分が大学で学んでいる専攻を生かして、あるいは自らの職場の中で盗みが横行する社会的構造にキリスト者として立ちむかい、助け合う社会、分かち合う文化形成に仕えるのです。

2.自らがなす
さらに2番めにパウロは「自分の手を持って正しい仕事をし」と語ります。ハイデルベルグでも「私が自分にでき、またしても良い範囲内で」と語ります。誰かのものではなく、あなた自身のもので「ふさわしいなすべきことをしなさい」と言うのです。このテーマはよく「誰かがやってくれるだろう」という事に陥ります。しかしここで盗まない社会形成に、あなたが自分の手で参与しなさいと語るのです。クリュソストモスは「貧しい人に私たちの財を分け合おうとしないなら、彼らに対して盗みを働くこととなり、彼らから命を奪う。」と言いました。つまり誰かお金のある人がするのではなく、時間のある人がするのではなく、「自分の手で」私たちの持っている時間、体力、考える力、祈る時間、ささげる献金が、今「盗まれている」人たちに仕えるものとして分け合うことです。もし持っているのに、何をしないことは「盗んではならない」に抵触をする罪なのです。一番の問題は、「それほど大切ならば、自分じゃない誰かがするよ。」という姿勢です。

あるいは起こりやすいこととして「自分が全てをやらなければ」と力が入り、その後の無力感に苦しみます。ハイデルベルグ信仰告白は「自分にでき、またしても良い範囲内で」と制限をかけます。これは「できる限りのことでいいよ」という意味ではなく、最終的には主が全てを為されるのだという神の所有された世界を維持し、支配されている主の働きにお委ねすることを促す言葉です。神様ご自身がこの深刻な状況を誰よりもご存知です。そして神はこの現状に無力さを覚え、意気消沈しておられるのではありません。ご自分の所有の世界に一人子なるキリストを遣わし、高らかに「世界は神のものである」と宣言されているのです。私たちはこの神様の支配と勝利を信じる信仰が必要なのであり、何よりも神礼拝に生きる必要があります。その意味ではデモが礼拝に先行することはありません。

3.骨を折ること
3つ目にパウロが語るのは、「正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」ということです。ここで私たちがよく知っていることは、正しいことをすれば大勢から支持される訳ではないという世知辛い事実です。「骨を折る」とは「無駄骨だった」とわれるように、良い結果を伴いません。しかし結果がどうであれ、諦めないことが求められるのです。この「盗みに満ちた社会」「盗みに目をつぶり加担している自分の弱さ」を見つめる時、私たちは諦めそうになります。
先日朝岡先生と話していて、「教団の教会と国家委員会ほど報われない奉仕はない。いくら「首相の靖国訪問の反対声明」「教育基本法案に対する緊急声明」を出したところで、結局首相は靖国神社に参拝するし、基本法案は可決される。」今も「原発に対する反対の声明」を出しても、朝日新聞の選挙情勢を見ると、結局は無駄骨を折るにすぎないのではないかと思わざるを得ない訳です。
しかしそんな時に今為している告白が、永遠の終末に完成に繋がる告白だと信じる信仰を失ってはいけません。主イエスが再び来られる時に、偽りのものはやがて廃れるのです。私たちはこの終末の希望を見失ってはいけないのです。今夜この時代に、ここに集まり、祈りをなし、自分の出来る事をしようとし、助け合う社会、わかちあう社会、盗まない、盗ませない社会を形成しようとしたことは、神の国の歴史の大きな一点を形成しているのです。それは孫達にも誇りうる一点の形成となるのです。私たちはこの一点のために、骨を折ることを惜しんではならないのです。

最後に 考えることを盗まれてはいけない
最後に考えることを盗まれないことは大切です。「盗まない」社会形成は、言うまでもなく「盗まれない」社会を形成しなければなりません。この時代は「考える」ことを奪いに来ます。しかし思考停止にさせられやすい出来事こそ、考え抜かないといけない事柄です。もうすぐ平成天皇の死が来るでしょう。あの昭和から平成に向かう時に、ありとあらゆるメディアが自粛をしました。触れてはいけない、思考を停止せよという空気が流れたのです。
よく考えると天皇制もまた天皇家の人権を盗んでいる事態です。天皇家をコントロールし、天皇家の人生を思い通りに支配しようとする存在がいる。KGKはそういったことを考える場所なのです。私もKGKに出会う前は、こんなことを考えないまま伝道をしていたらいいんだと思っていました。考えるのです。考え続けて欲しいのです。事柄はいつも複雑です。本質は隠され続けようとします。この国のこの時代に生きる使命を、誰かに誘拐され、コントロールされることがないようにしなければなりません。
 
最後の最後に
やはり選挙に行きましょう。どこに投票するかもよく考えましょう。反対の一票を明確にとうじましょう。友人を誘っていきましょう。FBでもなんでも使って今日考えたことを分ち合い、態度表明をしましょう。一番してはならないのは、告白の放棄です。無駄骨ではない骨を折ることへ、終末に向かってあきらめずにしていきたいと思います。

器が大きい人

KGKの主事は大切にもてなされることに慣れていない。
学生たちと泊まる場所は、もっぱら青年の家。食事に行くのはサイゼリア。


この日は、西大寺グランドホテルに宿泊。市町村合併により6万6千人の人口で、唯一のホテル。
この小さな町で、大きな教会の十字架がそびえて立っている。


幼稚園、小学校から高校生も在籍するサムエル国際キリスト教学園、ボーイスカウト、高齢者の介護サービスも提供する老人ホームも運営する大きな教会。

主の日の礼拝を含め、西大寺キリスト教会を会場に西日本青年宣教大会、婦人の集い、教役者の集いと4日間の奉仕。



この教会の主任牧師が赤江弘之牧師。
ホテルに自ら迎えに来てくださり、この4日間を過ごす。食事をご一緒にしながら伺う大きな大きなビジョン。


その大きな信仰の骨格にしっかり立っているのは、改革派神学。そして神の国の視座。
そしてホーリスティック(全生活、全存在、全領域)な福音理解。


ホーリスティックという言葉が福音派で使われるようになるずっと前から、この地で実践し続けてこられた老牧師の言葉は説得力があり、重く、深い。

神学の体系を口にすることは容易い。
しかし神学の目指すところをかたちにし、実行し、実現することは簡単なことではない。
日本のキリスト教会のわずか150年の歩みの中では、その文化形成にいたるまでにはもっと時間がかかることと思う。
その中で、この小さな町で実行し、実現し、今なお前に進もうとされている。

教育と福祉。
明治初期からキリスト教宣教師たちが取り組み、海外から献金がささげられ、この地にキリスト教文化を根付かせようと試行錯誤をしてきた歩み。
しかしその途中で戦火の渦に巻き込まれ、宣教師たちは帰国し、キリスト教主義の学校はその信仰の火は消えかかり、病院もまた多くは経営が優先されていった。

そして自由主義神学が教会を襲った時、福音派諸教会は社会的運動を敬遠し、狭い意味での福音宣教に捕らえられていってしまった。
もちろん教会の中心にあるのは、福音宣教である。

その福音の結実した時、どのような実を結ぶのか。地域の中で、社会の中で、この世界に。
その有り様を見据えることなく、狭い意味での伝道を繰り返し、救われると教会の奉仕に勤しむ。
もちろん大切なことだ。

しかしキリスト者とされた意味。
この地にキリスト教会のある意味。
キリスト教会がこの町にある時、その町にキリスト教会は町に何をもたらすのか。
霊的であることは、目に見えた実を結ぶことはしないのだろうか。

虐げられる子どもたちがキリストのそばに来ることが出来、
子育てに疲れた母親が友と助言を得る場所があり、
いじめに会い学校に行けなくなった子どもたちが最後に行ける場所となり、
歩けなくなった老後にも、賛美歌と祈りが毎日ある場所があること。

これは霊的なことだ。



大きな器だと思う。
卓越した人物なのだろうと思う。
同じことは誰にもできない。自分には到底出来ないと思う。

でも見ている視点は同じものを見ていたいと思う。

そして自分の召命感のなかで、この町に、この国に、この世界に、福音の結実を「かたち」にしたい。



最終日、教役者のつどいの講演終了後、質疑応答で老牧師が手を挙げられた。

「この大嶋先生の発題は、私たちに対する挑戦ですよ!」
低く静かな声ながら、こちらを見る柔和な眼差しが一転し、鋭く光る。


恐い人だ。

しかし大きな人物だ。
こういう老牧師に出会えること。その教えを受けることが出来ること、KGKの働きをするなかで味わえる至福の時間。




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